自治公民館による村づくりと小学校

鹿児島大学教育学部 神田 嘉延

■鹿児島県出水市上場集落と上場小学校の事例



序節 問題の所在


 上場集落は、出水市の中心から20キロ離れた標高500メートルの高原地域である。大口市や水俣市に至る峠筋であり、三つの地方都市の中間点という地理的な位置にある。総世帯は79戸であり、人口247人である。上場自治公民館は、1998年(平成10年)度農林水産大臣賞の村づくり日本一の天皇杯を受けた地域である。

 受賞対象になった上場自治公民館は、江戸期に開拓して集落をつくった旧住民の自治公民館と戦後開拓に入植してできた開拓自治公民館がある。つまり同一集落内に2つの自治公民館が戦後の開拓入植時期から約45年近く併存してきたという特殊性をもった地域である。
 この2つの自治公民館は、長年の課題であった水道事業を1993年度から開拓地整備事業によって着手し、2001年に完成させている。

集落全域内の水道事業によって2つの自治公民館は、統一していく。旧住民は、水源の条件のいいところに生活基盤をもっており、稲作を伝統的に営んできたが、戦後に開拓入植してきた新住民は、酪農、肥育牛、養豚、茶業などをして生計を支えてきた。水問題は常に深刻な状況にみまわれてきた。

 戦後入植は国による開拓政策のなかで行われてきた。そこには、旧住民の習慣的な土地利用と国有地の土地問題などが絡んで、同じ集落に住みながら部落組織・自治公民館は別になっていた。それぞれに集会施設をもち、活動は独自に行ってきていた。

 戦後は同一地域内に2つの部落組織・自治公民館があったのである。小学校や電気利用組合などは、2つの自治公民館とは別に、ひとつになって地域住民の活動がされていたのである。

 都市住民と交流していくための施設などの農村緑地センター、コスモス園、バーベキュー大会の場、古代の広場の特産品販売など、さまざまな地域施設は小学校に隣接して作っていく。

 都市住民との交流は、近くの出水市の住民との上場高原の地域ブランドづくりの開発によって、積極的に展開してきた。

上場高原牛乳は、出水市の地元乳業メーカーとの共同開発事業によって、地域ブランドが確立し、出水市内の小中学校の学校給食に採用され、地元のスーパー、地元の商店しか買えないブランドとして、出水市民に愛される牛乳として成長していく。

上場高原の牛乳は、生産量の80%が出水市で消費されている。地産地消が確立し、上場の酪農民にとって、地域の広域生活圏の出水市民に依拠した生産と販売を展開していく。

 そして、昭和59年から出水市民と上場高原の農民とのバーベキュー大会が年中行事として実施され、300名近い市民との交流がバーベキューを囲んで毎年行われている。無農薬のお茶や野菜、農産物の加工などが出水市の住民との交流のなかで発展していくのである。

 この広がりは、近くの大口市、水俣市へにもひろがり、バーベキュー大会ばかりでなく、コスモス園、古代広場の市など、上場には年間、10万の人が訪れている。

 上場の村づくりの特徴は、近くの都市住民との食をとうしての共同事業、交流活動を積極的に展開していることが特徴である。小学校の教育活動も郷土教育として、集落内で自己完結するのではなく、都市住民の交流活動を大きな柱にしている。

 以上のように、出水市を中心とした郡単位の広域的な車時代の生活圏を単位にした村づくりをしているのが上場のむらづくりの特徴である。つまり、自治公民館活動が集落内に向いているのではなく、都市住民との交流活動のなかで村づくりの活動が位置しているのである。このように、車時代のなかでの生活圏との関係で、近くの地方市街地の住民と積極的に連帯しながらむらづくりを行ってきた経過と、それを可能にしてきた地域の構造を明らかにするのが、本章の目的である。

とくに、地域構造のなかで、地域のまとまりとして、小学校の果たしてきた役割と、地域の生産や生活のなかから自治公民館の役割を明らかにすることが本章の目的である。


(1) 上場集落の旧住民の自治公民館と開拓自治公民館の歴史的経過

 a, 戦前の上場の開拓史

 上場集落は、旧住民の自治公民館と開拓自治公民館と、2つの自治公民館が1994年に統一されるが、居住地は同一内で、旧上場自治公民館と開拓自治公民館とが地域的に分かれていたのではない。戦後の開拓によって入植してきた人々を開拓部落・自治公民館として、分けていたにすぎない。

 江戸の末期に、天草から菱刈地方に多数の農民を移住させているが、その途中の上場に、水田適地があるとして、1852年に天草の栖本村から入植した農民が最初の上場の定住者であった。

そして、次々に同じ天草の栖本村から18名の農民が開墾に加わり、1900年の明治33年には、40戸田畑100haの集落が構成されていたと、合併時の記念誌「上場のあゆみ」に書かれている。100年前の1900年には、棚田を中心にして江戸の末期から新田開発をしてきたが、また、養蚕などの桑畑の山村開発も行われている。

 前記の上場のあゆみによれば、上場は、薩摩の交通の要所で一里塚もあり、幕末には国境を守るため上場の6ケ所に番所を設けていた。通称6か所と呼ばれていた。竹添富太郎墓碑には、上場集落に江戸末期に入植して生まれた長男として、西南の役に従軍し、その後村会議員になったことがあげられ、財産も相当に求めたと記されている。

 戦前の上場集落のまとまりは、棚田を中心とした水系が、村の秩序をなしてきた。田の神の行事も棚田のシンボルである。

上場の旧住民の頼母子講は、棚田と養蚕業を中心として、展開してきた。山の秩序も国有林に編入されていたが、生活のための薪や採草などの入山など上場集落の入会的性格をもっていたことを見落としてはならない。

 上場集落の属していた大川内村は大正5年、自作農585人、自作兼小作1551人、小作930人、合計3066人。大正11年676戸のうち、農業584戸、工業36戸、商業56戸で、士族102戸、平民487戸となっていた。

昭和4年の小作地田180町、畑51町、自作地田137町、畑180町。総農家数565戸のうち、純小作農家174戸、自作兼小作231戸、自作160戸である。農地改革で大川内村の小作地解放は122町で546戸に解放している。(出水市郷土誌より)

このように、上場では、田を中心にして、小作地が多い村であった。上場の田は、小作地になっていたということで、一部の上層農家を除いて、旧住民も戦前に厳しい生活を強いられていたのである。

 b、 戦後の上場の入植開拓展開

  戦後の上場の入植開拓は、旧住民の上場農民の生活していた集落に入ってきたのである。戦後の入植者は開拓部落の住民として、旧来の部落とは別に地縁組織をつくって出発している。1944年に、戦時食糧対策事業農兵隊により、上場地域において、麦、いも、豆類の作付けを行うために、開拓民として、徴用されたひとたちは、帰る土地もないことから、そのまま上場駐屯者として、開拓を続けていく。

 農兵隊としては、現地解散されるが、帰農組合を結成して、食糧緊急生産基地として、新部落をつくって生活の糧を得ていく。

さらに、集団移住者が17戸1946年3月に大川内村農業委員会の指定を受けて上場に入植してくる。この17戸と農兵隊を解散してできた帰農組合を合わせて緊急開拓指定者として、開発集団を35戸で発足させる。

 これによって、戦後の上場開拓部落が発足することになる。上場地域に旧住民の上場部落と開拓部落と、2つの部落が同じ集落に併存するようになる。1947年に開発集団地測量を開始して、県の地域集団土地買収が行われ、出水地区農地開発上場開拓地区が発足していく。

 1948年には開拓臨時措置法特別措置として、農協法に準じて、上場開拓農業協同組合が47戸を対象に発足する。1949年11月に第2次の開拓用地の買収が行われていく。

そして、1950年に、入植者個別に土地を配分する。第一次土地配分一戸2町限度、県直営配分を受け払い下げを対象農家65戸に設定する。

 同時に、既存農家の自作農創設農地用に上場部落の旧住民26戸に開拓用地配分を行う。

土地配分を実施したときから3か月後の1951年2月に農家2・3男対策として、大川内村農業委員会の協力のもとに、20戸が上場地区に集団入植してくる。県は第2次の土地配分払い下げを同年11月に実施する。

 以上のように、開拓政策によって、上場地区に多くの農民が入植する。この開拓政策のなかで、既存の農家も自作農創設農地用として、準入植になり、土地の配分を受けるのである。戦後の農地改革における自作創設は、既存の農家に対する土地配分として、開拓政策が利用されていることも特記すべきことである。

 上場集落は、1960年頃が、もっとも戸数の多いときだったが、そのときは、107戸である。そのうち開拓農家は47戸。1965年に過剰入植整理対策事業として、7戸が離農する。

1965年以降に、離農促進事業が積極的に展開されていく。離農することを前提に、50万円の借金返済をすればあとの借金は、返さなくてもいいということで、農家の間引きが1965年以降行われていった。開拓政策は、補助金事業つけであった。返済できない農家も増えたのである。

 戦後、緊急食糧政策のもとで、開拓者として上場に入植した農家で、十分に生計がたたなかった農家が多かった。行政指導のもとに入植者過剰整理組合が対策を行ったのである。1966年に、上場の基幹作物として、酪農振興事業を開始し、また、42戸で養蚕振興会を発足させて、養蚕を上場の基幹作物として、重視したのである。

同時に、この年に、健全農家対策としての拡張入植者として、新規入植者5戸が上場に入ってくる。1968年に開拓婦人ホームが建設され、そのなかに、僻地診療所が開設される。定期的に医師が巡回診療にくるようになる。

 1970年に開拓農業協同組合特別措置法が改正になり、上場の開拓農業協同組合は解散の指導を受け、1972年3月に総会で解散決議をする。ここで、戦後の食糧緊急対策事業の帰農組合からはじまった上場開拓事業対策の経済的基盤の開拓農業協同組合の役割は終了する。

 ところで、1971年に、開発公社による立売牧場構想がだされ、草地酪農として、当初20頭、見直しで40頭規模の機械化一貫体系の近代的酪農が模索されていく。これは、公社が土地の買い取り、土地造成、農機具、住宅などすべて条件整備して、農家に売り渡すという方式であった。

 1973年から工事がはじまり、1976年から立売り牧場がはじまる。3戸で合計54ha、3戸で機械所有ということでスタートした。補助は7割5分であり、1戸あたり1億円ということであったが、実際の個人負担は、4700万円になった。20頭という計算であったが、40頭以上飼育しなければ採算があわない状況であった。

 既存の酪農家4戸も総合資金を借りて20頭規模から40頭体制に入っていくのである。既存の酪農家は12戸であった。総合資金をかりることのできない農家や40頭規模の乳牛体制をできない農家は、他のブロイラーや肉牛飼育に転化した。また、それもできない農家は、間引きされていったのである。

 戦後の開拓政策では、1戸あたり、2haであったが、1970年代以降は酪農を中心にして、機械化一貫体系による規模拡大の時代に入っていく。現在、上場で長男と共に酪農をしている農家は、自分の人生を次のようにふりかえる。

戦後のはじめの開拓入植者は、体だけが資本ということで配分を受けた土地のみである。配分された土地も不毛の荒地で最も条件の悪いところであった。

 戦後の開拓入植者たちは、希望に燃えていたのが共通であった。金がないだけではなく、食べるものさえもない状況のなかで、この地域をどうするかということで開拓者たちは大議論をして、よくけんかをしたものである。教えてくれる人はいないが、みんな夢をもって困難に立ち向かうという開拓者精神があった。

 戦後の開拓者同士、意見が違ってけんかをしても、未来や夢にたいして共通の心があった。このため、生活上のことは、相互扶助と団結心が強くあったことが、困難な生活を支えたのある。上場は人とのつながり、人間関係がすばらしい。これは、不毛の土地をみんなで協力して、開拓してきたなかでつくられたものであると。

 以上のように、戦後上場に開拓入植し、統合された上場の初代の自治公民長を勤めた大毛道秀さんは語る。草地酪農による規模拡大をめざした1970年代の前半、立売牧場がはじまる以前に、出水市の乳業メーカーが、上場高原の牛乳ということでブランド化したいということで、地元の農家と交渉に入った。

 県酪が一元集荷するが、出水市の池田乳業におろすということでまとまり、上場高原牛乳のブランドがはじまる。出水地域の学校給食と出水市民をターゲットとして販売された。

上場高原の牛乳は、乳質もよく、非常に評判がよく、出水市民の牛乳として定着していく。評判がよいことから一部は他地域の栗野の基地におろすが、出水市民にこだわることを重視した。しかし、冬になると加工乳になるのが多く、牛乳の販路の拡大も必要になっているが、出水市民に飲んでもらうことを大切にすることを基本にしていった。
 
(2) 集落の統一性としての小学校の役割と電気・水道事業

 a, 集落統一前の地域内の協同活動基盤

 上場集落は、1994年以前は、2つの自治公民館が存在していたが、2つの自治公民館をのり越えて、集落としてひとつの活動を展開していたのは、小学校を中心とする地域活動、学校の支援活動、老人クラブなどであった。

 戦後の開拓政策の結果は、上場の集落内に2つの部落組織をつくった。部落組織を名称変更した自治公民館もそれを継承した。開拓政策は、上場に2つの部落組織をつくっただけではなく、農業協同組合も同じ集落であったが、戦後開拓入植者は、別に開拓農業協同組合をつくった。

 戦後開拓は、国有地を造成して入植したが、この国有地は、旧住民にとって、自由に山を採草や薪炭などに利用していたところも含まれていたのである。旧住民と開拓政策によって入植してきた住民とのあつれきがおこったのも当然であった。

 旧住民からみるならば、自分たちの利用していた山をとられたという意識をもったのである。開拓入植者からみれば、水が豊かな条件のいい土地は、旧住民によって占められ、不毛の荒れた土地を開墾しなければならないということであった。

 戦後の集落内には、水田をもち経済的に余裕をもつ旧住民と、自分たちの食糧確保すら困難な開拓入植者とが混在して暮らしはじめたのである。開拓入植者は旧住民から余った米など食糧を譲りうけて暮らさなければならない状況であった。 

 以上のように、戦後の開拓入植によって、上場集落の人口は、急増していくが、集落がひとつになっての地域の部落組織になっていくのではなかった。しかし、上場の集落がひとつになっていく地域活動が生活のなかから生まれていったことも事実である。

 集落の住民が待ち望んでいた上場小学校の設立は、上場の旧住民も開拓入植者も子どもの教育ということで、ひとつになっていく。

開拓地区教育振興事業という開拓政策によって、上場地区に小学校の分教場が設立される。1953年には、開拓部落、旧住民の上場部落の両者によって、電気利用組合が発足した。

1954年には、上場小学校は独立していく。1957年に小学校内に開拓僻地集会所ができて、教室も増設される。1961年に九州電力に編入されるまで、電力をチッソから購入して、電気利用組合をつくり、地域の住民の協力によって、電気を維持してきたのである。教育や生活の向上が旧住民と戦後開拓の住民との一層の協力関係を構築していくのであった。

 戦後の開拓政策による人口増大によって、上場分校の創設、上場小学校が独立していく。このことで2つの部落組織をもっていた上場住民に共通の地域活動の基盤が生まれていく。

また、旧住民にとっては、開拓入植により上場地域の人口の増大がもたらされたことによって、集落内に小学校が実現したのである。それも開拓政策のなかでの教育事業による学校建築である。

 上場の小学校開設は、開拓入植者の運動を中心にして、旧住民の大きな共感をもって行われた。校舎敷地や運動場の整備は地域住民の一致した協力によって、成し遂げることが出来たのである。この小学校開設運動は、旧住民と開拓住民の垣根をはずし、集落の地域住民の協同事業になった。

 小学校が集落内につくられることでPTA活動はもちろんのこと、長寿会などが集落内にひとつの組織として展開していく。とくに、小学校の運動会は集落内のもっとも大きな行事になっている。上場の地域住民が一同に集い、旧住民も開拓住民もすべて一緒になって、小学校の運動会を楽しんでいる。

 小学校の運動会は学校行事としてだけではなく、上場の自治公民館の行事として機能していることを重視しなければならない。

学校側でも上場小学校のねらいを次の3つにおいている。「1,児童生徒の体位や体力の向上を図り、日常の体育学習の成果を発表し、運動会への意欲関心を高める。2,集団行動を通して、規律を守り、協力して責任を果たす態度、安全保持の態度を育てる。3,地域住民の親睦を図り、また生涯にわたって自主的に健康増進や体力つくりに励む態度で明るい地域住民の育成を目指す」。地域住民の親睦、生涯にわたっての健康増進ということで、小学校の運動会を学校に在籍する児童のためではなく、地域住民の運動会として積極的に位置づけているのである。

 中学生も高校生も積極的に地域の担い手として、運動会の主役になっている。また、小学校の運動会には、現在、上場の地域に住む人だけではなく、上場出身で出水市街や近くに住んでいる人も参加する。

 子どもから老人まで上場の地域住民のすべてが参加できるようにプログラムが企画され、全住民参加の小学校運動会になっている。図表3に示すように、校内種目と地域種目に競技が分かれ、地域種目は地域の自治公民館が主体的に企画して、運営している。校内種目は、平成13年度には、大きく減らし、地域での種目に力を入れたのが特徴である。

地域種目では、自治公民館の体育部長が大きな役割を果たし、婦人会も会計から当日の係りまで幅広く運動の準備に力を注いでいる孫と一緒にと、ふうさせんをうちわではさみ4メートル先のポールを回ってもどる競技、ゲートボールとして、ゲートより4メートルの位置からゲートを通してリレーする。1人5回で通過しないときは終了する。

 200歳リレー5名で200歳を越えることが条件とする競技。玉つりとして、高齢者65歳以上のゲームで、一列に整列した後、竹の棒を持って一斉にスタートし、宝物の入った紙袋を棒にひっかけて帰る。

 年齢別対抗リレー・チーム9名で一人がトラッック1周づつして、リレーする。10代より男女の順でリレーする。中高校生のマラソンなど運動会の内容は、地域住民のすべての年齢層が参加して、楽しめるように工夫されている。この上場集落の運動会の性格は、2つの自治公民館が統一した後は、名実ともに小学校と地域の自治公民館の合同行事になっている。

運動会の経費は、学校行事として市の予算からと各戸から1500円徴収して運営している。予算の面からも学校予算だけではなく、地域住民の自治公民館からの予算として、婦人会が責任をもって徴収しているのである。

 また、小学校の運動場では、毎年8月14日に、盆踊りや花火大会が住民総参加のもとに行われている。小学校の運動会や小学校を会場とする盆踊り・花火大会は、集落内に2つの自治公民館があったが、上場のふるさとの心をひとつにするものになっている。

 小学校の運動会や小学校での盆踊り・花火大会は、集落のまとまりの大きな役割を果たしてきたことを直視しなければならない。

集落内に旧住民と開拓住民と、2つの地縁組織の自治公民館があったが、小学校が旧住民と開拓入植の新住民が一緒になった集落内の自治活動のセンターとなってきたのである。

 上場小学校は集落内の協同活動の公的なエリアとして、地域の運動会、集いのセンターとして、その後、保育所、週一回の巡回診療所、統一された自治公民館が小学校のまわりにつくられていくのである。上場の地域住民がつくった長期計画も、小学校を中心にした公的な集落内の施設が構想されていくのである。
 
b, 上場集落の2つの自治公民館が完全統一した水道事業

 上場集落には、戦前から居住していた住民による自治公民館と戦後の開拓入植住民による自治公民館と、2つの地縁組織が集落内に存在していたことはすでにふれたことであるが、この2つの自治公民館を統一していく大きな契機になったのが集落内の水道事業である。

 上場の飲料水は、井戸と沸き水の自然水であった。しかし、旱魃のときは山を超えて水をくみにいかねばならないことがあり、大変な重労働であった。

とくに、畜産農家にとって、水の確保は死活問題であった。開拓集落の住民は、水の確保にたびたび悩まされてきたのである。

上場集落の地形から水源の安定的な確保は難しく、水道事業は、開拓集落住民にとって切実な課題であった。平成5年の大旱魃は、開拓集落住民ばかりでなく、上場のすべての住民にとって、水不足に悩まされた.8月から12月までの5ヶ月間、毎日5キロ離れた水俣市の河川から水の運搬をしなければ農業をやっていくことができなかった。とくに、動物を飼育している畜産農家は深刻であった。

 水道管20キロにおよぶ大水道事業が平成5年の大旱魃によって、上場に住む旧住民と戦後開拓住民すべてにとって共通の課題としてとりくんでいくのである。

旧上場住民から5名、開拓集落住民5名と両自治公民館からなる水道委員会が発足する。上場の全戸加入による水道事業の開始によって、両自治公民館がひとつになっていく。

小学校の運動や電気組合など上場集落の統一した活動は、今までもおこなわれてきたが、自治公民館という地縁組織を完全に合併させるまでにはいたらなかった。平成5年の大旱魃が同じ集落にあった2つの地縁組織を完全に統一させる大きな原動力になったのである。

 水道事業は8億5千万円かかり、国家補助95%、県と市が5%といことで、私有地などの地元負担は、2500万円ということで、1戸平均して40万円ぐらいということであった。

国家補助は、開拓地整備事業として、県が事業主体の営農用飲雑水事業一式2千6百万円、出水市の事業主体の上水道整備79戸、6億円となっている。

 昭和55年以降のむらづくりに対する県・国の補助事業の総計が9億4千万円ということから、水道事業の事業が上場に対しての国の大きな事業であった。

水道事業の他の主な事業は、道路舗装事業昭和55年から62年9千8百万円、平成2年緑地公園整備9千8百万円、平成8年茶業等の農業機械2千4百万円、平成9年の堆肥運搬車等の農業機械導入1千4百万円である。

 私有地にたいしても75%の補助がついている。水道事業は10年間かけて、2001年12月に事業は終わり、実施組合も解散した。当初は、旧集落住民は水道事業に賛成ではなかった。自分たちは水に困っていないし、負担金は払うことはしたくないという理由からである。

 このため最も水の必要な肥育牛や乳牛を飼っている農家が100万円を考えてプランをつくっていった。

旧集落住民の3分の1が賛成してくれることによって、事業の受け入れが可能になった。戦後の開拓農家にとって、水の確保は死活問題であり、旧集落住民の水道事業の説得は、命がけの仕事であった。

 10年間かけて、2000年度に水道事業が完成し、2001年12月に上場集落のすべての家に給水が行われ、上場集落の水道委員会は解散することになった。

水道事業をはじめるときは、旧上場集落住民は、水に困っていなかったので、賛成ではなかったが、95年度の大旱魃が上場集落のすべての住民に水道事業の大切さを認識させたのである。

 水源の森事業として、2002年の冬に1haの植林を集落の住民のボランティア活動として実施している。今後の計画では4haの植林を計画。苦い旱魃の経験から上場の集落住民の水道事業を実施したのであるが、

さらに、山を守るということから植林事業に発展している。自然環境を再生していことは、地域住民の暮らしを守っていくという認識になったのである。

(3) 上場集落の地域農業の特徴と地方都市住民の交流による産直

 a,上場集落の地域農業と農家の都市交流の内発生

 2000年農業センサスによれば、農家戸数53戸(旧上場集落15戸、開拓集落38戸)となっている。 このうち、販売農家数は、39戸(旧上場集落10戸、開拓集落29戸)である。100万円未満農家は、12戸である。上場集落農家数の販売農家39戸のうち、12戸が自給的性格を強くしている。つまり、小遣い銭程度の販売である。100万円以上から500万円未満4戸、700万円から1000万円未満の農家が4戸である。上場集落全体で農産物の販売金額は約10億になっている。

 2001年度は狂牛病問題等で厳しい農家経済を強いられ、10億円の生産額を大きく下回り、7億638万円である。1000万円以上の販売額をもつ農家は、19戸であり、これらは、すべて開拓集落になっている。戦後開拓農家が、上場の農業生産額をリードしていることが理解できよう。雇い入れている農家数は7戸で延べ685人。区域面積は860haであるが、農地面積は172ha。このうち訳は、田16ha、普通畑104ha、樹園地14ha、採草放牧地38haである。

販売額第1位の農産物は酪農7戸、工芸作物(お茶)3戸、肉用牛13戸、養豚1戸、養鶏3戸、稲作2戸、雑穀・いも・豆類3戸、路地野菜1戸となっている。

 酪農は7戸で324頭、2歳以上246頭である。肉用牛は14戸で1582頭である。この肉用牛農家は狂牛病問題でもっとも深刻な状況にたたされているが、酪農家も子牛などの販売など15%程度が肉牛販売に流れてきたことから、その経営に大きな打撃を受けている。それぞれの農家相互の支えによって、生計を維持している現状である。

 専業農家は、13戸、第1種兼業農家15戸、第2種兼業農家10戸となっている。世代的にも3世代の形態が11戸、2世代24戸、1世代18戸と農家での2世代以上の形態の比率が53戸のうち、35戸と高くなっている。家族協定を結んでいる農家も3世帯である。

 上場の肥育牛農家13戸は、狂牛病できわめて厳しい状況にたたされている。また、上場高原牛乳として、出水地方ブランドを産出している酪農7戸も牛乳だけが収入だけではなく、よく乳がでない牛は、和牛とかけて肉牛としてだしている。現在の狂牛病問題で子牛はほとんどだせない状況である。

 収入15%が肉牛に依存していう酪農家のSさんは、自分の生命共済はすべて解約した。妻が保健婦のアルバイトをしているので生活が助かっている。妻も今までは、農業共済であったが、自分の保険をかけるようになった。

 上場の酪農家は、自己資本が低く、制度金融などから借金をかかえている。7戸は、それぞれ連帯保証人になっているので、ひとりでつぶれることはできない。倒産ということもみんなに相談しなければならない。それぞれが、助けあわなければならない。

 上場高原牛乳を支えてくれた出水の池田乳業から県酪が銘柄を継承した。Sさんは、このままでは将来どうなるかわからないということで、自分で生の牛乳を消費者のオーナー制度のもとにはじめている。

消費者が自分の牛をもち、酪農家に飼育管理をしてもらい、牛乳を定期的に配達してもらうしくみである。

 消費者は、飼料代と管理・配達労働を委託した酪農家に支払うというしくみである。消費者は自分の牛から牛乳を飲んでいるというしくみである。毎週火曜日に出水市民に配達している。

今後、この制度を発達させ、消費者と直接結びついていく酪農経営を目標としている。濃厚飼料を現在使用しているが、自給飼料を目標にしている。

 飼料畑5ha作っているが、自給にするには、30頭が限界である。借金の返済など30頭では食べていけない。

放牧地10haあるので、今後有効に利用して自給飼料をめざすとSさんは語る。消費者との関係が直接的になり、自分の牛として見学にくるようになっているので、経営の透明性、率直に難しい面などを消費者に説明している。

 今後の農業経営にとって、農業を知らない消費者に農業の現実をわかってもらうこと、とくに、有機農業など安全な食の提供には消費者との積極的な交流、相互理解をしていくことが必要とSさん強調する。

 また、農家のひとたちも人間的に深くなっていくように大いに学ぶべきであると考えて、Sさんは、トルストイなどの本を読み、上場の地域で都会の子どもも学べるようにと、風の教室として、デンマークのホルケホイスクールの考えで教育実践をしている。さらに、酪農教育ファームの全国ネットに入り、中央酪農会議の酪農教育ファーム推進委員会の116農家の全国認証牧場のひとつになっている。

 上場には、Fさんを中心に、棚田の保全のための水田経営の管理や地域の荒れた水田の復活をしている。Fさんは、5年前に移住して水田にこだわっている。水田を購入しての農業での生活の潤いを強調している。さらに、風の教室に参加してきたメンバーは、上場の地域で失敗した観光牧場の跡地利用としての教育事業の模索をしている。

 sさんにとって、教育と農業の関係にもっとも関心をもった契機は、自分の子どもが高校生のときに、自分の家で鶏を飼って、生んだ卵からにわとりになることに子どもがびっくりしたと母親に語ったことがショックであったと。鶏を飼う以前は店で売っている卵と家で飼っている有精卵との違いなどの理解がなかったということである。酪農家として、生き物を扱っているのであるが、子どもに本物の生をもっている意味の体験をさせなければならないということを悟ったということ。その後は、自分の子どもだけではなく、他人の子どもを酪農体験させるようにしていく。

 医療関係のひとで、上場に10年まえに風の教室を開いたFさんとともに新しい農業と人間形成の問題を学び、都市の住民との交流を展開していく人がいる。このグループは、出水市の文化会館の駐車場を借りて、テントを15張り、30店舗ぐらいの生産者の販売や職人の紹介などをしたのである。このなかから、海苔をうっていた人や畳の職人の人が自立して生計をたてられるようになっていく。Sさんもこの市場で知り合った人や風の教室に参加してきた人を中心にして、牛のオーナー制度をつくりあげて、牛乳配達の軌道をのせるのである。

 Sさんは上場のかかる緊急な課題を次のように語る。上場集落の今後における施策として、人口を増やしていくことが大切であると。上場集落は、このままでは、老後の問題が深刻になる。上場の高齢者でも医療機関の関係で都会にいかねばと思っている人が多い。巡回の診療ではなく、いつでもみてもらえる診療所が必要とする。都会の人を積極的に受け入れる体制が求められている。この上場集落は、都会の人にとっての癒しの場になると考える。この上場集落に住みたいと考える都会の人もおり、これからは、この地に移住できるように住宅確保ができないものか。誰がきてもいい。場合によっては、日本国籍をもっていなくてもいい。閉塞感はよくないとSさんが力説する。

 Tさんは、戦後開拓の2代目で50代の前半であるが、現在は、長男にすべてのお茶の経営をまかして組合の仕事に専念している。茶の栽培面積は428aで、長男夫婦とTさん夫婦の家族4名の労働力と、パート延べ200人の労働力である。製茶工場を自分の家にもち、無農薬有機栽培を生かして直接消費者に販売している。

 最初に茶の木を植えるときに、2メートル深耕し、EM菌などの微生物の働きを最大限生かして無農薬栽培をしている。一年に微生物が5センチ耕してくれる。虫除けには木酢液を使うが、こくすると問題が起きるので雨の日に木酢駅をかける。雨が降らなければ水をたっぷりかけるように工夫している。草は刈り取ったら、そのまま畑のうえに置いて、お茶の木にとってプラスになるようにと、土の微生物の働きを大切にしている。カルシウムのために貝を入れ、マグネシウムのためににがりを畑にまいている。伊豆大島から定期的ににがりをとっているなどのこだわりをしている。自分の敷地内に掘ってみたら水がでたということで、40aの面積で深さ8メートルの貯水池で1万トンの水をためている。全園にスプリングクーラーを設置し、防霜、液肥散布、灌水等に利用している。お茶農家にとって、霜は非常にこわいので水の確保が大きい。とくに、この地域で4月がもっともこわい。

開拓農家では水に苦労しているが、Tさんは、水がでたということでお茶の農業経営の安定に条件がよかったと語る。一番茶の6割は、お願いしている問屋に、残りが自販している。自販は、1年間冷蔵庫にストックしておいて、注文に応じて随時販売していく方式をとっている。消費者との直接のつながりを大切にしていくということで、自販の体制を強化したいとしている。これからは、消費者との共創時代であるとのべる。 Tさんは、訪ねてくる消費者にたいする自分の農業経営の案内を2枚のワープロうちのプリントで書いているが、その要旨は次のとおりである。 

「昭和30年に茶業をはじめて、昭和48年から減農薬にとりくみ、昭和56年より無農薬有機栽培にする。昭和59年よりボカシ肥料を主体とした施肥体系に、平成2年よりEM栽培にとりくむ。現在は化学肥料を使わずボカシ肥料による土づくりを重点にとりくんでいる。

 自然の中で自然と共に、自然の生命力を最大限いかしての農の経営をしている。生命力・免疫力を最大限生かしての病害虫に負けない樹園を育てること、草を雑草としてみるのではなく、刈り取った草は、持ち出さずにそのまま敷き草にしている。

土壌の流出と、微生物の活動を活発にさせるため。定期的に土壌分析を行い、科学性のバランス、PHの安定、土壌の微生物相・生物相からの分析、地下1メートルまで土の物理制御の分析。土壌分析の結果、ボカシ肥料の成分調整をしている。

 液肥を雨の降っているときやスプリングクーラーによって施肥。病害虫防除は、生理的防除、生物的防除、物理的防除、耕種的防除など生態系のバランスを最大限生かしている。

ミネラルのたっぷり入った、抗酸力のある健康のためのお茶飲んでもらうために、無農薬有機農業を続けることは、ただ物を売るだけではなく、お茶をとおして心のつきあいを願っている」とTさんは結んでいる。

防除は総合的にしているが、力を入れているのは生理的防除である。ボカシ肥料も有機質を入れている。草との闘いも大切。草刈りも5種類を使い、効率的な除草をして、その草も有効に利用している。無農薬有機農業は、お茶を売るということは、健康を願い、心のつきあいを消費者としていくという理念からである。消費者の健康のために、直接のつきあいで農業をとおして、心の交流をしていこうとする姿勢からである。

 TさんのEM菌の微生物農業技術は、養豚農家にも伝授されている。養豚農家の糞尿の臭い消しに利用されているのである。微生物の分解により、悪臭を消す努力をはじめている。おがくず床30センチを畜舎にひき、EM菌などの微生物を入れて、自然分解させるとりくみである。豚の糞尿を決められた場所にさせ、それを毎日定期的に取り除き、別の場所で分解させ、残った畜舎でもおがくず床でも微生物によって悪臭を分解するというしくみである。養豚農家は、専業で1400頭飼育しているが、20年間悩み続けてきた。微生物の分解の農法によって、悪臭から解放されたのである。糞尿処理に悩まされて、現在はおがくず床にEM菌を入れて微生物の自然分解の農法という糞尿の自家処理が重労働になったが、意欲的に挑戦している。

養豚経営は、この他に法人経営として、窒素の子会社の共栄畜産が、集落の居住地から離れて、5千頭以上の大規模な飼育をしている。

 この養豚農家の自然農法の指導にお茶の自然農法に成功した農家が懇切丁寧に援助しているのである。このように、上場では、成功した農家相互の技術の援助がある。自分だけの成功ということではなく、地域の成功へと技術を困っている農家に援助している。農家同士の競争によって、自分の成功を独り占めしていくという考えではなく、地域の技術としてお互いに学び励ましあっているのである。

上場地区では、畜産環境保全対策協議会が1977年(昭和52年)につくられ、上場地区の畜産農家同士が互いに、研修して、畜産廃棄物の適正処理、家畜衛生意識の向上を行って、周辺地域の環境保全に努力してきたのである。上場地区畜産環境保全対策協議会の目的は「家畜飼養者自らの飼養管理を徹底することにより、会員相互の連携を密接にし、関係機関、団体の指導を受け、家畜衛生意識の向上と畜産廃棄物の適格な処理を行い、もって畜産経営の改善と上場地域をはじめとする、周辺地域の環境保全に全力をつくし、地域畜産の振興に寄与することも目的とする」と書かれている。

年2回の共同防除の実施をし、畜舎は常に清掃し、ウジ等の悪臭が発生しないように衛生的に保つようにする。飼養規模に応じた堆肥施設、尿溜め等を設置すると、3点を重点実施事項として、協議会では決めている。

 上場集落の農民の新たな挑戦の意欲は、無人ヘリによる共同防除作業のオペレターの免許取得にも現れている。1997年当時に上場農民4名で共同防除作業を無人ヘリコプターによって請け負う試みをしている。免許所得によって、旧大川内村の稲作を共同防除しようとしたのであるが、実際に練習をいつもしていないと細かな操作が無理ということで免許所得だけで終わっている。新たな農業の挑戦を試みていくということで、この無人ヘリコプターの動きも上場の農民の農業生産意欲の現れとして評価されよう。
 
b, 広域生活圏内の都市住民の交流活動

 昭和58年に上場の高原牛乳の販売を開始した。このブランドは、成分無調整による新鮮で甘みのある地元の牛乳として、おいしく、顔の見える牛乳販売と地元の市民に上場の牛肉を食べてもらうために、翌年の昭和59年から畜産農家全体としてとりくんだ。バーベキューによる都市住民との交流で生まれたものである。

 このバーベキュー大会は毎年10月の体育の日に上場の恒例の行事になり、地域住民が道路沿いにアジサイを植えたり、未利用地にコスモスを育てたりして、上場地域の景観づくりに積極的にとりくんだ。毎年300人余りが集まり、すべて上場の食材を使ってバーベキューや無農薬の野菜販売などを行っている。会場は上場小学校の運動場に、30台のバーベキューコンロが並び、牛肉100キロ、牛乳30リットルが用意される。小学校の運動場が都市住民と交流の広場になっている。

この交流広場には、市街地の住民が家族づれで来て、上場の農民と共に楽しんでいる。バーベキューを囲んで大いに語り、綱引きをしり、上場の特産物の買い物をしている。

古代マーケットとして、縄文時代の縦穴式の茅葺き建物を10棟つくり、それを店舗として、地元の高原野菜、コンニャク、漬け物、無農薬茶などの産物を販売している。古代マーケットでは、古代人が使っていた石器を実演して、上場縄文遺跡の歴史的意義についての学習を楽しみながら行っている。

 平成2年には、上場農村緑地広場を出水市経営で5ヘクタールつくった。この緑地広場は、上場の地域住民によって管理し、菜の花やコスモスを植えている。緑地広場管理組合を18戸で組織し、菜の花やコスモスを広場一杯に育てている。この植栽には、約500人の市民ボランティアが参加している。このボランティアは、バーベキュー大会に参加する市民を中心に行われている。

 管理組合は「年間をとおしての除草をすること。春と秋の花木の植栽、育成をすること。堆肥、肥料等の施肥を行い、土壌改良に努めること。定期的に駐車場、管理棟その他の施設の巡視、点検を実施すること」などの管理を行うことになっている。以上のように、様々な地域活動をとおして、上場の近隣都市の市街を中心に、年間10万人の観光客が上場に訪れるようになったのである。

(4) 集落の自治公民館統一による村づくり運動と長期計画づくり運動

a, 生活主義的な村づくり運動

 車での生活圏内での交流活動を重視しての顔の見える産直による地域農業振興によって、上場の過疎化をくいとめてきたむらづくり運動は、前章でみたとおりである。さらに、上場のむらづくりの特徴として、地域の福祉や暮らしを大切にしている。

 ひとり暮らしのお年寄りを統一した上場の自治公民館で支えて、安心して暮らせるような体制をとっている。

地域福祉ネットワークという組織体制で、ひとり暮らしのいる家庭に近所の若い人のいる世帯が、その人を見守ってあげるということ。現在一人暮らしの高齢者は8人いるが、面倒をみる家庭は2戸から3戸で、また12人が朝と夕方に訪れて声かけして、話し相手になっている。この12名のうち11名が女性である。一人暮らしのお年寄りが町や病院にいくとき、車で乗り合わせていくように。台風や大雨などの災害のおそれがあるときは住居の補強や連絡体制などお年寄りがどんなときも安心してくらせるように、地域で支えるしくみをつくっているのである。

 上場集落には、5つの班があり、それぞれの班長さんにもお願いして、特定の人だけに負担がいかないようにみんなで援助するようにしている。高齢者に気をつかわせて共同作業の負担を強いるのではなく、集落の仕事は、できる人でやればいいようにしている。地域の子どもとの交流活動なども高齢者の役割も尊重している。長寿会を中心として、おとしよりと子どもたちのふれあい交流も活発に行われている。いも団子づくりをしたり、水鉄砲、竹馬、竹とんぼづくりをお年寄りから子どもたちが学ぶ企画を行っている。この行事は、小学校でのふれあい活動として、学校教育のなかに積極的に位置づいている。

 ところで、山菜や無農薬野菜という健康を大切にした農産物の顔の見える販売、家庭のもてなしの味を商品化しようと、ドレッシングや手作り味噌を加工食品化した女性の起業おこしのグループも健康や家庭の味という生活主義に根付いたむらづくりのひとつである。上場の集落の女性グループ18名で、「天の市」を組織し、緑地広場の直販所に地元でとれた野菜、山菜、農産物加工品を販売している。このグループは、20歳から70歳代と幅の広い年齢層が参加している。

また、出水市市街地で実施されている毎月第3日曜日の朝市に野菜や農産物加工品をそろえて出店している。この販売品は、上場集落の高齢者や女性たちが生産したものである。春には、たけのこ、ワラビ、だいこん葉、セリ、秋には落花生、大根、サトイモ、白菜などの旬の野菜を、また、年間とおして、コンニャクや漬物を近くの出水市街、水俣市街、大口市街の地方都市住民を相手に販売している。

 これらの販売は、高齢者や女性たちの余剰労働力を有効に使ったものであり、上場集落の高齢者の生きがい対策として大いに役にたち、女性たちの地域おこしの意欲的な参加になっている。

 このようななかから、さらに、地域の起業おこしとして、農産物加工品工場を「わらび郷」と名称し、本格的に生産販売を1999年にたちあげて、生産販売の事業をはじめている。自分たちの納屋を改造して、自分たちで資金を集めての事業の展開であり、行政からの補助金なしでの、自分たちの経営努力による起業おこしである。

 この農産物加工グループは、自分たちのつくりあげたドレッシングや手作り味噌などを販売し、ドレッシングは、年間4000本の生産販売をしている。メンバーは5名で、それぞれ200万円をだして、1千万円の資本ではじめている。

 2年間は給料を返済にあてたが、3年目の2001年から給料を使えるようになっている。200万円を借りたときに、夫を担保にして金融機関から融資を受けている。この加工グループの味つけは、70歳代の年配者であり、上場の女性たちがつくりあげてきた家族に対する思いやりの家庭の味を都市の人にもあじわってほしいということではじめたものである。この女性グループは新たな挑戦に生き生きとした起業おこしを生活者の視点からはじめているのである。

 上場では自治公民館での文化活動も大切にされている。婦人会による生け花教室や踊り教室も行われている。

また、親子会による鬼火たき、親子キャンプ、海水浴、毎月の神社清掃などが企画され、上場集落での子ども会や親子会なども集落活動のなかに位置づいて行われている。

 スポーツ活動は、上場地域内のグランドゴルフ大会や親子ソフトボール大会、班対抗駅伝大会、バレーボール活動などがされている。また、旧大川内村バレーボール大会、出水市での駅伝などのスポーツ大会に上場集落としてチームをつくり、参加している。

 上場集落の地域では、自衛消防隊が組織されており、大雨や大雪で道路に木や竹が倒れて車が通れなくなったりすると、即座に道路の修復をするようにしている。台風で電柱が倒れたときも住民自らが復旧工事を自主的にし、他の地域よりもいち早く電気の復旧が行われている。

 1954年から1961年までの間に、上場住民によって作られた自家電気利用組合の伝統が九電によって電気が配給されている現在でも災害から電気の供給を守る組織が機能しているのである。これらの機能を支えている地域の社会層は、電気が止まり、道路が閉鎖されてもっとも困る酪農家である。かれらが、自衛組織を強固に継承させてきたのである。

 若い後継者世代は、「のびる会」というスポーツ同好会を15名でつくり、30代で、すでに家族をもっている後継者も多く、農業を後継している世帯もいる。集落内の体育部とは異なり、農業後継者の親睦会であり、家族と一緒にクリスマス会をして、集落の入り口には、門松をたてるなどしている。

 自治公民館の集落の地縁組織とは別に、バーベキュー大会など都市との交流活動を展開する畜産振興会や上場農村緑地広場管理組合、直販組織「天の市」のグループ、農業後継者の親睦組織の「のびる会」や女性の起業おこし組織「わらび郷」など集落内に機能的なグループが積極的に作られていることが上場の特徴である。

b, むらづくり活動の組織運営と地域民主主義

 上場自治公民館は、総会が住民の最高意志決定機関であるが、日常的には、13名からなる運営委員会によって地縁組織としてのむらづくり運動がされている。13名の内訳は、自治公民館長、副館長、書記会計、部長5名、班長5名である。部会組織は、総務部、産業振興部、福利厚生、体育部、環境整備部からなっており、それぞれの部会ごとに役員がおかれている。13名の役員は総会で選出すると上場自治公民館の規約で定められている。役員の選出にあたっては、旧上場住民と戦後開拓住民との和を配慮しての選出がされている。5つの班も、それぞれの和ができるように、旧住民と戦後開拓住民が、それぞれの班ごとに入っている。旧上場住民の離村の率が高く、戦後開拓の住民が多くなっている状況がある。

 総務部は、消防関係、行政納税関係、小学校運動会、有線放送、盆踊り大会の打ち合わせ、研修会打ち合わせ、公民館清掃、神社例際打ち合わせ、朝日神社氏神祭り打ち合わせなど集落行事の基本的な運営をしている。

2つの自治公民館の合併にさいして、集落内にあった3つの祭りの継承は大きな課題であったが、自治公民館の行事にしたのである。

 それぞれにあった講の組織は、そのままにしたが、神社は集落の統一の行事にしたのである。旧住民にとっては、朝日神社は、村の創設という意味のシンボルであり、戦後開拓した住民にとっては、開拓魂としての拓魂祭りが大きな精神的な支えであった。戦後の開拓精神と伝統的な村の創設の精神が統合して、ひとつの自治公民館としての地縁組織になったのである。この中心的な仕事は総務部が担っている。

 産業振興部は、長期ビジョンの検討実践と、生産グループと連携の仕事になっている。産業振興部の下部組織に普通作部、畜産部、園芸部、土地利用組合、上場農業機械管理組合部などがある。

 厚生福祉部は、青少年の指導、環境改善関係、生活改善となっているが、大きな活動は一人暮らしのお年寄りが安心して生き甲斐をもって生活できるようにと、見回り者の会議やお年寄りと子どもたちのふれあい活動が中心になっている。

また、生け花教室や踊りの教室も厚生福祉部の活動である。福祉厚生部は、女性を中心にした活動が多い。体育部は、上場地域の大運動会の開催や旧大川内村の各種運動大会への参加。環境整備部は、あじさいロードの草払いやゲートボール場の清掃など。

  1998年度にむらづくり日本一になった年の4月の上場自治公民館総会より、予算の特徴をさぐってみる。収入は住民から館費136万6800円で、繰り越し21万1350円ということから総予算203万0150円と、多くの予算の収入が住民からの館費である。市からの助成金は、17万円、雑収入15万円となっている。

  支出は役員報酬が81万6000円、渉外費36万円、育成費17万円(婦人会費5万円、敬老会6万円、長寿会2万円、親子会1万円、スポーツ同好会1万円)、公民館費15万円(拓魂際祭、朝日神社春・秋祭、体育費15万円(駅伝・ソフト・バレー13万円、校区駅伝1万円、ママさんバレー1万円)、事業費14万円(水道委員5万円、長期ビジョン5万円、環境1万円、産業1万円、総務2万円)などと予算規模は活動に対して多くはない。

 予算規模や支出からみても自治公民館の館費に依存した活動ではなく、自治公民館の活動が、地域住民のボランティア精神で自立的にも行われていることが理解できる。収入も行政からの助成金は総予算の1割以下である。自治公民館の地域活動に行政依存の体質ではなく、予算的にも自立性が強くみられるのである。

 自治公民館の館長の報酬も36万円、会計12万円、副館長6万円などとなっている。

自治公民館には、準会員として、5名が登録されている。自治公民館に入会する場合には、2000円になっている。地縁組織として、地域で暮らす人を自治公民館の会員としているが、流動性の強い教員などが準会員となっている。

 上場自治公民館は、地区内に居住する人であれば誰でも意見がのべられるようにと、総会の役割を重視している。総会によって、みんなが自由に意見をのべられるように、

また、館長・副館長・会計と部会長、班長からなる13名の運営委員会と部会や班を大切にした活動をしている。さらに、集落内の様々な機能的なグループの活動を尊重して、集落住民のむらづくり活動の自主性に力点をおいたのである。
 
c, 長期計画づくり運動

1994年に旧集落住民の自治公民館と戦後開拓の住民の自治公民館が合併することにより、即座にとりくんだのが上場集落の長期ビジョンづくりであった。

集落内の20歳代から60歳代、男女構成、旧住民と戦後開拓住民と、それぞれのバランスをとった13名からなる長期ビジョン策定委員会をつくり、集落の現状分析とビジョン素案づくりがなされていく。

合併に際して「上場の合併記念誌・上場のあゆみ」37頁を作成している。合併に際して、「ふれあう心、結びあうふるさと」をスローガンにみんなで話し合ってのむらづくりにとりくみはじめている。

 長期ビジョンは、農村社会と農業振興の2つの側面から整理している。農村社会面で、上水道及び営農用水道整備は、水道委員会を中心にして推進いくこと。合併したことにより既存の公民館を改修すること。防火水槽の設置を市に要望していくことがまとめられている。そして、休耕田を利用した自然池の整備や農業体験や山村留学ができる施設整備を検討している。

 農業振興面は、農業機械利用組合の設置、緑地公園に農産物加工施設や直販所の設置ということで、94年の合併の年に、「天の市」のグループを発足させている。直販のグループは、長期ビジョン策定委員会の議論のなかから発想が生まれたものである。桑畑跡を利用したふれあい農園の設置は検討中である。

 むらづくり長期ビジョンの計画化のなかで、現状マップと未来マップを作成していくことを提起して、集落住民の様々なアイデアを集落地図のうえにおとして、具体的に長期ビジョンを構想している。

 95年に県の「新農村振興運動の重点地区」に指定され、むらづくり活性化計画を県に提出している。

この計画によると、改善目標としての農業生産目標は、露地野菜の現況が、家庭菜園的規模の農家がほとんどであるのを、高原で栽培できる新規作物の導入を図り、自然を生かした環境保全型農業にとりくみ、消費者との交流を積極的にはかる構想をだしている。

畜産農家と茶業農家は、後継者の確保もあり、経営規模は、現況を維持していくことをあげている。畜産農家の課題は、共同堆肥センターの設置であり、環境保全型の技術の開発、観光牧場の充実などをあげている。

 農村社会の改善は、むらづくりの長期ビジョン委員会を中心にして、地域ぐるみの話し合いにより、道幅・側溝未整備などの道路施設の整備、防災安全施設などの集落環境整備の掘り起こしをあげている。公民館の改修は、2つの自治公民館の合併によって、全集落住民が集えるような施設にすることが課題になっている。

 農村緑地広場の維持管理は、現在は18戸からなる集落の一部の農家による管理組合で行っているが、集落全体として行うという方向の検討も必要としている。今後、年間をとおして観光客がよべるように施設の充実を図ることをあげている。

 畜産振興会を中心にしてはじめられたバーベキュー大会などは、都市住民との交流活動として、大きな役割を果たし、出水市が公園として設けた緑地広場5haを上場の18戸の住民によって管理してきた。これが、集落全体としての管理運営の検討に入っている。

 都市との交流活動は、はじめに集落全体として、合意して、まとまって実施していくという方法ではなく、集落のなかで積極的にとりくもうとするグループから都市との交流による地域おこしがはじまっているのである。ここにみられるように都市との交流活動を推進してきたのは、集落の畜産振興であり、むらの共同体的な全員一致主義によるむらづくり運動ではないのである。 

(5) 上場小学校の郷土教育と交流教育活動

a,上場小学校の児童数の減少状況

上場小学校の校区は、戸数79戸、人口247人であるが、そのうちPTA戸数は、12戸で、準会員67戸である。小学校の児童数は、14人である。上場の人口は1990年256人に対して上場小学校の児童数は、34人であった。

 上場小学校の児童数の推移は、90年41人、91年41人、92年41人、93年36人、94年31人、95年22人、96年17人、97年14人、98年11人、99年13人、00年16人、01年14人となる。

90年代後半に児童数の急激な減少をみせている。今後5年間は、子どものいる世帯人口移動がないとすれば、16人から15人であるが、地域の活性化にとって、外からの世帯の受け入れが大きな課題になっている。

ところで、都市との交流事業によって、上場に移住を希望する世帯が生まれはじめている。移住希望者に対してのきめ細かな住宅取得政策が上場地区で検討がされはじめている。とくに、子どものいる世帯が移住できる環境をどう整備していくかという。

 子どもの減少で地域にとっての活力が大きく失われていく。小学校PTAを中心にしてきた地域活動も大きな曲がり角になってきている。小学校の運動会は、上場自治公民館と共催で毎年9月の下旬の日曜日に実施している。3月にはPTAを中心にしてのスポーツ大会も行ってきた。これらの行事も子どもが少なくなれば衰弱していく。

 小学校に隣接して上場自治公民館の施設があり、村づくりの様々な活動に小学校の施設が利用されてきた。小学校は、上場住民にとってのむらづくり運動のセンター的役割をしてきたのである。旧村単位の大川内地区で地域の合同運動会の申し入れがあったが、上場地域の住民は独自に上場小学校校区として実施している。

 中学生をもつ親にとって板挟みであったが、中学生も上場の運動会に参加し、大川内地区にも参加する方式をとっている。旧大川内村では、過疎化によって、小学校校区単独で運動会ができない状況になっている。

 小学校の郷土教育にも地域のPTAをとおして、地域の人にお願いしてきた。PTAは、地域の自治公民館と同じような機能を果たしていたのである。94年の2つの自治公民館の合併同時は、半数近くの戸数がPTAの正規の会員で子どものいる世帯であった。

 上場小学校の総合学習のとりくみは、交流教育活動を特色ある活動としてとりくんでいる。他の地域の交流として、阿久根市の脇本小学校と実施している。脇本小学校は、児童数358人の規模の学校で、同じ農村地域であるが、畑作を中心にしている。阿久根市街から11キロの長島に接する農業と沿岸漁業地域である。

さらに、同じ旧村地域の大川内小学校と交流活動を実施している。地域間交流活動は、環境の異なる地域との体験活動をとおして、子どもの多様な体験認識を少しでも多く取り入れていこうとするものである。

学習発表など交流校とやることによって、積極的に一生懸命準備し、表現力や主体性を身につけていくという成果をあげている。交流活動によって、子ども同士の交流ばかりでなく、教師間や保護者同士の交流活動にも発展している。日常的に複式学級の小規模学校のなかで固定してのなれ合った人間関係から相手校との学習発表によって緊張ある学習へとつながっていったのである。総合学習として交流活動を展開しているのが上場小学校の特徴であり、授業交流という位置づけをしている。

 b, 上場小学校の郷土教育

上場の校訓は、開拓心ということで、上場の地域づくりの特殊性を学校教育のなかにも反映している。上場小学校は、戦後の開拓住民が旧住民とも協力して学校開設の運動によって、学校が作られたのである。

 上場小学校の教育実践の特徴として、郷土教育も大きな特徴であるが、このなかで、子ども達に開拓の歴史を教えている。

毎年行われる拓魂祭りを学習の導入として取り入れている。上場の開拓の歴史を古老などから聞いて、先人の苦労や工夫について調べ、話し合いをしている。開墾、水の確保、電気の導入、学校の設立なども子ども達に調べさせて、発表させ、話しあわせている。

 さらに、実際に土はこびや当時の食物を食べたりして実感をもたせている。社会科や総合的な学習の時間などの日常的な授業の中に、地域の人を積極的に活用して授業を展開している。

開拓の歴史などは、地域の人が学校教育のなかでもっとも活躍できる場である。また、学校としても土曜参観、収穫祭、学習発表会などを学校行事とし、地域の人を積極的に招いて学校の様子が地域の人によくわかるように工夫をしている。地域の年輩者は、特別に昔の遊びや昔の学校の様子を語ってもらうようにと行事をたてている。

 郷土教育は1年生から6年生まで全学年と、全教科・総合・特別活動・道徳など学校教育の全分野で実施されている。また、自治公民館やPTAと密接になって活動を展開しているのも上場小学校の特徴である。教育実践の内容も地域連帯、郷土の自然認識や保全、郷土の文化芸能、郷土の生活と歴史までと多面的に展開している。

学習の方法も1年生の昔の遊びからはじまり、6年生の郷土の歴史、文化、自然の認識と郷土の誇りという段階まで学年によっての発達を考えての郷土教育を展開している。

 2002年度4月からの総合学習の時間の導入によって、交流学習(55時間)と同時に食農教育(35時間)の指導計画をたてている。学習農園の運営を子ども達にしてもらい、食にこだわり、作物の栽培から収穫までを子ども達に作業をさせる計画である。土づくりは腐葉土づくりからさせ、収穫のときは、収穫祭をするという。

 2001年度は20時間で、全学年を対象にしての無農薬有機野菜栽培をPTAと農家の協力を得て実施している。4月に育てた野菜を子ども達に調べさせて自ら選定させてから農家に協力を願うことにしている。

4月に畑の準備をして、耕土や施肥をし、5月に作物を植え付け、それから草取りや手入れをする。土寄せや病害虫の防除をして、作物の成長を観察し、記録することをしている。

 そして、9月に収穫し、料理や加工を考えて収穫を計画。4月から9月までの作業である。このように、作物の選定や収穫祭の企画などを子どもの自主性を尊重しながら、農家の協力・指導者の依頼をしている。

 保護者の11戸のうち、会社員が4戸、建設業従事2戸、大工1戸であり、農業を中心にして生計を営んでいる家庭が少なくなっている。

子どもたちも地域の農業のことについての理解が不十分になっているのである。このような状況のなか、学校教育として、食農教育をとおして地域の農業についての理解を深めることは大切な課題である。以上のように上場小学校は、地域生活に根ざしての郷土教育を総合学習のなかで積極的に展開し、小学校の運動会などの学校行事は地域行事になっているのである。

まとめ


 出水市上場集落は、戦後開拓入植によって、同じ集落に2つの自治公民館(部落)ができて、実に、1995年(平成6年)に両集落が合併するまで別々に集落を運営してきたのである。約50年間にわたって、開拓住民と旧住民とは集落運営は別であったのである。

それが、集落の大干魃という自然災害を契機として、簡易水道の導入の必要性が叫ばれて統一していくのであった。村づくり日本一になった上場集落であるが、前史は、2つの自治公民館が存在していたのである。

 しかし、この2つの自治公民館がいがみ合いをしていたのではなく、学校を中心にして運動会などの集落行事が五〇年間以上にわたって、行われてきており、校区住民としての強い統一性があったのである。

 村づくりの中心的な担い手に学校の機能が果たしていたのである。また、学校を中心として保育所や診療所、両自治公民館の建設が行われてきており、小学校は地域住民のまとまっていくよりどころになっていたのである。

 この意味で、小学校は、地域づくりのセンター的役割をしていたのである。この学校の地域づくりセンター的役割は、PTA、運動会の活動という学校教育の内的な側面ばかりではなく、学校の運動場を利用しての都市住民のバーベキュー大会など、学校施設が地域の文化的センターとしての役割を果たし、地域住民が気軽に集まれる施設として機能していることである。

 上場小学校が自由に運動を開放していることによって、地域住民は都市住民との生活主義的なむらづくりの手法を取り入れての交流を積極的に展開できるのである。

 まさに、学校は地域の社会教育施設の機能ばかりではなく、農村振興運動の中核的施設として機能しているのである。学校施設に連続して、自治公民館の集会既設があるのも、その機能を高めているのである。

 上場小学校の教育基本方針に地域住民の開拓魂が位置づけられており、教育内容におけるパイオニア精神の育成に地域住民の参加にもとに行われているのも特徴であった。

 上場の学校教育実践における郷土教育、他の地域との交流活動、環境教育、食農教育などの地域に根ざした教育実践に地域住民が積極的に協力しているのも上場小学校の大きな宝である。


*サイト上の文章及び写真、または紹介する著作物の内容は、如何なる理由を問わず、
  転用・転載・引用等は著作権侵害に付き、堅く禁じます。


*論文によっては著作者の知の集積であり、性質上サイト掲載に当り全文を掲載せず、
  タイトル・出典先のみを表示するものもあります。


*時間的経過によって著作者自ら内容を変更する場合もございます。

神田嘉延研究室