吉田 健一研究室 学生へのメッセージ


稲盛アカデミーでの教育について



 私が稲盛アカデミーに着任したのは平成20年10月です。ここでの私の任務は、稲盛アカデミーの設立趣意に基づいて「人間教育部門」で主として思想や倫理・哲学に関する講義を受け持ち、人間教育に関する科目を担当することです。
 思想に関係のある講義では、平成21年度からは「陽明学入門」、平成22年度からは「日本の経営思想T・U」(今はT・Uの区別はない)を教えています。
  特に私が力を入れているのは東洋と日本の人間観や社会観を形成した様々な思想です。 年度ごとに少しずつ講義を変えていますが、平成24年度から開講した「公共哲学論」(近世編・近現代編)も思想について考える講義です。
 陽明学というのは、中国の儒学の一派ですが、人間とは何か、人間の生きる道とは何かという事を考える上で「心」に焦点を当てた思想・学問体系です。
 私と東洋哲学との出会いは、政治の道を目指して学んでいた財団法人松下政経塾時代でした。松下政経塾は政治の現実や、各々関心のある政策分野について現地現場で研修をするところですので、東洋思想(儒学)研究ばかりをしていたのではありませんが、政治や経営など世の中のありようについて学ぶ人間にとってはいかに東洋思想を学ぶことが重要かということをこの時期に知りました。
 本稲盛アカデミーの教育において、我々が輩出したいと考えている人材は、単に個別の知識の多い人間ではなく、幅広い教養と知識・見識・胆識を兼ね備えた、「物心両面の幸福を実現する社会のリーダー」(『設立趣意書』)です。ですから、今日、義務教育から高等教育でも殆どふれる機会のない東洋学・人間学(儒学)を少しでも皆さんに知って頂き、人間形成に活かして欲しいとの思いから担当しています。
 東洋の思想は急に、今日、明日に何かに具体的に役に立つ(就職や「カネ儲け」に結びつくというような意味で)というものではありません。しかし、長い人生、試行錯誤しながら何某かの事を成し遂げようとする人間にとって必ず役に立つものです。昔は、「学問」という言葉は、今日のような知の体系を指すものという意味以外にも今日の言葉で言う「人間学」や「教養」を意味する使われ方もしてきました。儒学でいう「聖人の学」などという言葉の文脈で使われる「学問」は、今日の自然科学・社会科学・人文科学という意味での学問ではなく、人格を修養する手段としての学問の意味です。我が国においても、江戸時代の儒学者などのいう「学問」は人間の修養と、社会を治める知識としての学問の両方を意味していました。この私の「陽明学入門」ではそういう意味の「人間修養の学」としての側面の紹介もしています。
 「日本の経営思想」では、近代以降の日本の経営者の思想について紹介しています。今日、様々な分野でモラルハザードが進行し、経営者を巡る不祥事も後を絶ちません。それには様々な理由があると思われますが、その一つに私は近代以前から明治以降の近代化、そして戦後の高度成長期と日本人が大事にしてきた価値観の崩壊があると思います。
 昨今は、米国流に様々な分野で制度変革が行われ、日本人は心と体がバラバラになっています。経営の分野でも米国流の新自由主義に基づく「改革」が急速なスピードで進められましたが、その結果、果たして日本はどのように変化したでしょうか。私はマイナスの方向に行ったことの方がはるかに多いと考えています。現在、その揺り戻しが来ているようですが、このような時代の中で今後の社会を生きて行く皆さんに深い部分で指針となるようなものの考え方(の基礎)を提供したいとの思いをもっています。崩壊しても辛うじて、日本社会に残っているものを皆さんに伝えておきたいと思っているのです。
 成功した経営者は、押し並べて、皆、一様にその人間観や人生観、組織観、社会と企業の関係、また、(今日の言葉でいうところの)資本主義の根本への考え方を述べています。経営の成功と、その経営者の思想とは切っても切れないものです。極論すれば、経営者がどのような思想(人間観・社会観、企業観、資本主義観)をもっているかが本来は最も大事なことです。このようなことを是非、皆さんが社会の一線に出る前に一度考えて欲しいという思いから「日本の経営思想」を開講しています。
 「公共哲学論」(近世編・近現代編)では、歴史的な視野の中で、今日の世界と日本の状況を考える視野とセンスをもって頂くために、幕末から明治・大正・昭和(戦前期)の日本の思想家、学者、政治家、ジャーナリストに学ぶ授業です。過去に学ぶことは、未来に誤った選択をしないために重要なことだという観点から、講義をしています。





My Column 「薩摩に来て思う事」


 鹿児島に来てから、歴史的な場所に行くのが楽しみです。これまでに鶴丸城(鹿児島城)、城山、南洲墓地、仙巌園などに行きました。市内ではないのですが霧島神宮にも行きましたし、この1月には桜島にも初めて行きました。
 最初に鹿児島に来た時に、加治屋町の周辺を歩いたり「維新ふるさと館」に行ったりしたのですが、狭い一箇所の集落から何人もの偉人が出ていることを知って驚きました。歩きながら、あの人も、この人もここから出たのか!と興奮しました。いかに志を同じくする人間同士が結束する事が大きな事かと思いました。
 また、志士や政治家のみならず、日本の近代化に様々な分野で尽力した人を生み出した薩摩の秘密について強い関心があります。志を同じくする人々がお互いに切磋琢磨して影響を与え合いつつも個々人の適性に基づいて仕事を進めることの大事さなど、近代の薩摩・鹿児島から学ぶ事は多くあると思いますね。
 京都もそうなのですが、道を歩いていて小さな石碑を見つけることが多く、石碑を見つけると必ず足を止めて、その場所のいわれを書いた板を読むようにしています。先日は、近代美術の父、黒田清輝生誕の地を見つけました。薩摩といえば志士(そこから政府の政治家や官僚・軍人になった人物)輩出のイメージが強いのですが、近代日本美術の父も維新直後の薩摩から輩出されていた事に驚きました。
 鹿児島は食べ物も美味しく、景色も綺麗で南国らしい大らかさがあり、休日に電車でいろいろな所に行くたびに良い街だと思います。また、鹿児島は思っていた通り質実剛健の気風が強く残っていると感じます。
 平日は家と大学の往復ですので、まだ鹿児島(薩摩)の魅力あるところに充分に行けてはいないのですが、徐々にいろいろな所に行くのを楽しみにしております。





学生の皆さんへ−「自分」と向き合い、考え抜いて欲しい−


 私は明治維新の英傑が好きなので鹿児島(薩摩)は憧れの地でした。薩摩の志士たちが京に登って他藩の志士と交わり、維新の偉業を成し遂げたことに昔から深い関心を持っていました。今、また、激動のこの時代に京に生まれた私が薩摩に来て鹿児島大学で教鞭を執る事になったことに深い運命、縁(えにし)を感じております。 名誉なことだと思うと共にいつも、使命感をもって講義をしています。
 大学生の皆さんに一番申し上げたいのは、若い時は悩むことや孤立することを怖れないで欲しいということです。孤立を怖れ、周囲との表面的な付き合いにのみ気を使うことだけの毎日には何の意味もありません。大学時代は、自己と向き合い、「自分とは何か」ということを徹底的に考えて欲しいと思います。
 この「自分とは何か」というのは、「自分とはどういう人間なのか」ということと、そこから一歩進んで「自分には社会の中でどんな使命があるのか」ということです。誰しも適性があり、そして、社会の中での生き場所があると思います。充実した人生を送るには、「自分を知る」ということと、その「自分を活かす」ということが大事だと思います。
 既に自分の適性と目指すべき方向性や使命(ミッション)に確信が持てた人はそのまま突き進んで欲しいと思います。その中で新たな課題も出てくるとは思いますが、「分かっている」人にとっては、いつまでも「自分探し」をすることには意味はありません。一通り自分なりに自分の道が分かった人はその方向で頑張って欲しいと思います。大学生のうちにそこまで到達できる人は、極めて幸運な方だと思います。普通は、社会に出てからも、自分の適性や使命、望む道と現実との間で悩むと思いますが、学生時代に自分がすべきことが大体、分かったという方はまずやってみて欲しいと思います。
 そうではない人は適当にごまかさず、とことん、「自分とは何か」、「世の中とは何か」ということを考えて欲しいと思います。これが出来るのは若い時の特権です。その手助けとして、大学の様々な講義があるのだと思います。人生について考えるも良し、社会について考えるも良し、社会と自分との間で自分の使命を考えるも良し、その気になれば、大学での講義には様々な人生を豊かにするために考えるヒントが入っているはずです。専門知識をつけることと、自分や社会のあり方を考えること、この両方が大事です。しかし、考えるのは皆さん自身です。先生や他人が、変わって自分の分まで考えてはくれません。ここが最も大事な部分なのです。
 この時期(若い時)に徹底的にものを考えず、さりとて自身に対する直感的な確信(天啓のようなものを受ける人はたまにいますが、そういう人は考える段階は過ぎたかも知れませんので上述したように、直接、信念をもって突き進んでください)も持てず、適当に「自分」から目をそらした人はいつまでも生煮えの人生を送ることになりかねません。最近では、30代や40代まで、生煮えの状態を持ち越してしまう人増えているようですが、納得がいくまで、多いに悩み、考え抜いて欲しいと思います。
 また、日々の経験から学ぶ事は重要ですが、決して読書を馬鹿にせず多くの書物を読んで欲しいと思います。これも時間のある学生時代の特権です。周囲の年長者に読書を軽くみる人、行き過ぎた「経験主義」の人がいても気にせずに本を読んで欲しいと思います。直接経験は勿論、大事ですが、読書による思索も大事なものです。専攻分野にとどまらず、人類の古典といわれるものは読んで欲しいと思います。
 また、絶えず視野を広く持って頂きたいと思います。歴史的視野の中で今の日本や世界の状況をみて、その中で自身を位置づけて欲しいと思います。世の中(時代状況や雰囲気)から逃げることは出来ませんが、さりとて、その現実の状況の中で世潮に流されず、主体的、実存的に生きることまではできます。そのための力すなわち、本当の「活きた教養」を身につけて頂きたいと思っております。



※「稲盛アカデミーでの教育について」は、平成21年3月に執筆したものを元に、平成24年8月に大幅に加筆・修正、同年11月に一部修正したものです。
※「My Column」は私が鹿児島に来て間もない平成21年3月に執筆したものです。今は、鹿児島の生活にも慣れ、鹿児島の文化や歴史、街に深い愛着を感じています。最初の感動を忘れないためにHPに掲載しておきます。
※「学生の皆さんへ−『自分』と向き合い、考え抜いて欲しい」−は、平成21年3月に執筆したものを平成24年11月に一部加筆修正したものです。基本はそのままです。

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