『地方議会論−分権推進下での課題
 京都市会議員に対するサーヴェイ・リサーチの分析を背景として』

■ (要約)

 分権化社会を迎えるにあたり、現状の地方議会に対する批判が多く出されている。しかし、議会不信論自体は最近出てきたものではなく、以前から論者の間ではよく出されていた。議会批判論者の指摘を一言で言い表すならば、首長との「なれあい」によって本来議会が果たすべき行政に対する、批判や監督機能を果たさず、行政の追認機関になっているというものである。
 一方において従来からでも、地方議員は、市民と行政の架け橋として、日常的に市民、住民のニーズを行政に反映するために日夜奮闘しているので、我が国の政治・行政に大きな役割を果たしているとの主張もあり、そのような研究書も存する。
 では、何故、地方議員はそれなりに働いており、我が国の政治・行政システムを考えるにあたって欠く事の出来ない重要なアクターであるのに、批判されることが多いのであろうか。それは、実際に直接議員と結びつきのある個々の有権者と、「市民」を盾に議論を展開する人々が求めているものとの間に理念上の乖離が存在するのかも知れない。
 本稿全体の背後にある関心は大きく二つである。一つ目の視点は「地方議会と市民」の関係、もう一つは「地方議会と行政部」の関係である。昨今「市民と行政」についてはよく論じられているが市民の側からも行政の側からも議会は無視されている感がある。この二つの問題関心から地方議会を考察し「地方における政治の復権」の可能性について模索するのが目的である。
 本稿では地方議会を巡る規範的、原理的問題の検討とサーヴェイデータに基づく現実の議会、議員研究の両方を行う。両者は別物ではなく、論文の構成上相互に補いあい、規範的な問題を検討するにあたってデータを見ながら議論を展開していく。 
 本稿では分権推進下の自治体ににふさわしい議会の制度研究、これまでの地方議会に関する論点そのものの紹介と規範的な検討、議員意識研究の三つのバランスを考慮しつつ、上述した「議会と市民」と「議会と行政」の二つ視点から様々な問題を見ていきたい。
 構成は次の通りである。第一章では地方議会の法的権能と機能を見る。次に第二章では地方議会を巡る議論を二つに分けてみる。一つは先行研究の紹介・検討であり、主に学者・研究者の間で地方議会がどのように論じられきたかの分析を行う。もう一つは行政改革の流れの中で地方議会がどのように評価されてきたかを整理しておく。第三章では「市民参加の論理」と銘打って主に市民の側から議会が今、何を求められているのかの論点整理を行う。第四章は「地方議員の意識構造」で主にサーヴェイデータの分析にあて、地方議会における政党化とアマチュアリズムの問題や代表制民主主義と連結機能についての考察を行う。終章においては地方議会と行政の関係について考察し、その中から改革案をも示し締めくくりとする。

目次



はじめに 今、なぜ地方議会か
第一章  地方議会の法的権能と機能
 1節   地方議会の法的権能
 2節 議会機能と地方議会
第二章  地方議会を巡る議論
 1節   地方議会の無力論と有意論―先行研究の紹介・検討
 2節 地方議会活性化の議論―行政改革の流れの中で
     1)80年代以前から分権論議まで
     2)地方分権推進委員会勧告
第三章  市民参加の論理―地方議会と市民
 1節   「市民の議会」論について
 2節 地方政治の対立軸―住民投票を巡る議論
第四章  地方議員の意識構造
 1節   地方議会の政党化とアマチュアリズム
 2節 代表制民主主義と連結機能

第五章  地方における政官関係―地方議会と行政
 1節   二元代表制の行方
 2節   議会事務局改革案
 3節 小規模自治体の政治・行政システム改革案
おわりに
〔主要参考文献(論文)一覧〕



はじめに 今、なぜ地方議会か

 昨今の地方分権推進の流れは、いよいよ実施段階に入った。国会で地方分権推進関連法案が成立し(1)今後は実施段階に入る。地方分権について論じられる時、必ず、中央と地方の事務や配分の問題が真っ先にクローズアップされる。つまり、分権について何かが語られる時、その切り口は主に中央―地方関係からの視点で「行政」内部の問題として語られる事が多いと言う事である(2)。また、従来から地方自治に関わる問題は、政治学でもとりわけ「行政学」の課題であった。しかしながら、地方にも行政(執行部)と並んで議会が存する。これまで、議会を正面から論じるかたちでの地方自治論は明確なかたちではなかったようだが、分権が本格的に実施されていくならば、今まであまり顧みられる事のなかった地方議会についても、その役割の現状を肯定的に考えるにしろ、否定的に評価するにせよ、一度は本格的に論じられるべきであろうと思われる。
 昨今、分権化社会を迎えるにあたり、地方議会の現状に対する批判が多く出されている。しかし、議会不信論自体は最近出てきたものではない。議会不信(批判)論者の指摘を一言で言い表すならば、首長との「なれあい」によって本来議会が果たすべき行政に対する、批判や監督機能を果たさず、行政の追認機関になっているというものである。
 一方において、地方議員は、市民と行政の架け橋として、日常的に市民、住民のニーズを行政に反映するために日夜奮闘しており、我が国の政治・行政に大きな役割を果たしているとの主張もある。
 では、何故、地方議員はそれなりに働いており、我が国の政治・行政システムを考えるにあたって欠く事の出来ない重要なアクターであるのに、批判されることが多いのであろうか。実際に直接議員と結びつきのある個々の有権者と、「市民」を盾に議論を展開する人々が求めているものとの間に理念上の乖離が存在するのかも知れない。特定の「市民」観を持って、現状の地方議会を批判するのであれば、議会不信論者も、ある特定のタイプの議員の出現を求めたり、これを、応援する一つの政治勢力と考えられ、政治そのものの問題となる。いずれにせよ、現実の地方議員たちをつぶさに観察することなしに一方的に規範的、批判的議論を行うことは不毛である。
 議員の行動の観察を進めるにあたって、特に留意すべき点が二つある。第一は「地方議会と市民」の関係、第二は「地方議会と行政部」の関係である。昨今「市民と行政」についてはよく論じられているが市民の側からも行政の側からも議会は無視されている感がある。この二つの問題関心から地方議会を考察し「地方における政治の復権」の可能性について模索するのが本稿の目的である。
 昨今の分権論議の中で、行政に対する市民の「参加」(3)が盛んに論じられている。また、各地での住民投票を求める運動によって直接民主主義を求める動きも顕在化している。一方、行政内部においては、政策評価(事業評価)についての研究が盛んになってきている。いずれも、大切な課題ではあるが、「議会」について考えられていない点に違和感を抱かざるを得ない。 
 本稿では地方議会を巡る規範的、原理的問題の検討とサーヴェイデータに基づく現実の議会、議員研究を行う。先に指摘した、二つの視点に留意しつつ、議会のあり方を検討するには、議論の整理と実際の議員たちの意識の分析が二つながら必要だからである(4)。
 本稿の構成は次の通りである。第一章では地方議会の法的権能と機能を見る。次に第二章では地方議会を巡る議論を二つに分けてみる。一つは先行研究の紹介・検討であり、もう一つは行政改革の流れの中での地方議会の位置付けられ方を見る。地方分権推進委員会の勧告についてもここで検討する。第三章では「市民参加の論理」と銘打って、松下圭一の議論を紹介する。第四章は「地方議員の意識構造」で主にサーヴェイデータの分析にあて、地方議会における政党化とアマチュアリズムの問題や代表制民主主義と連結機能についての考察を行う。終章においては地方議会と行政の関係について考察し、その中から改革案をも示し締めくくりとする。
 地方議会と言っても、実態は多様であり、実際には一口で論じる事は困難である。例えば東京都議会と人口数万人規模の自治体の議会とでは、構成メンバーやその共同体における役割の性格は異なるし、単純にこの両者を同じ「地方議会」の名の下、同列に論じて、将来への展望を考えるのは無理があろう。本稿で言う「地方議会」とは、ある程度の規模の自治体の議会である。都道府県議会と政令指定都市、中核市ぐらいまでの議会を視野に入れている。勿論、人口規模で全てを分けるのは乱暴であろう。同じ人口規模でも地方議会の活発度は異なると考えられるからだ。イメージとしては、議員たちが専業で活動出来る程度の地方議会を対象にしている事を述べておく。

はじめに 注
(1)1999年7月8日、「地方分権の推進を図るための関係法律の整備等に関する法律」が国会で成立した。 (2)『地方自治』(村松岐夫 東京大学出版会 1988)で、村松は、世界の分権を3つの型に整理している。(p.3)「政治的分権」、「行政的分権」、「行政権委譲」の3つである。日本は、連邦制国家ではないので、当然「行政的分権」である。従って、我が国において地方分権について語られる時、中央―地方関係の枠で議論がなされてきたのは当然であるし、分権論議のなかでも、地方の「一部分」にすぎない地方議会についての議論が少なかったのは当然であろう。政治・行政学者の関心が分権論議の中で、地方議会に向きにくかったのも、ある意味で当然の帰結であったのかも知れない。
(3)「市民参加」とは『現代政治学小辞典〔新版〕』(阿部斉 内田満 高柳先男 有斐閣 1999)によると、「政策決定課程への市民の直接的参加。参加デモクラシーの志向の高まりのなかでの市民運動の活性化とともに強く主張されてきた。一般的には、自分たちに直接関係し影響を与える問題(黒人にとっては黒人問題、貧困者にとっては貧困撲滅問題、市民一般にとっては環境保護問題など)の決定への市民の参加を意味するが、このような参加が最も有効なのは地域社会のレヴェルにおいてであり、このゆえに住民運動と同義語的に用いられる場合も多い。〔内田〕p.194」とあり、「参加デモクラシー」とは「政策決定過程に対する直接参加を志向する、直接民主制の現代型の思想と運動。1960年代に噴出した下位文化(サブカルチュア)集団は、その奉じる価値と国益との乖離によって、実力行使の手段をもって自己主張を顕在化した。その主張は、大衆に埋没した個人の主体性の復権を全面的に強調し、代表制デモクラシー(間接民主制)の形骸化を糾弾する尖鋭な新左翼を生み出した。彼らの参加デモクラシーは一時的には注目を集めたが、その急進的破壊主義によって衰退せざるをえなかった。だが、その思想は公害、環境問題、人種問題に対する市民運動や住民運動のなかで継承され、国益に併呑されていた下位文化的価値を人間の存続のための要件として突出させることで、政治における人間の意義を現代史に投げかけている。この種の思想と運動は、投票参加とともに、デモクラシーを充実し、集権化された官僚制支配を打開する可能性を持つものとして注目に値する。(内山)p.177」とある。最近の日本における「参加」論の盛り上がりも、この思想、運動の延長線上にあると考えられるのであるが、地方分権論議と共に語られる時、参加を求める市民の側からと言うよりも、先進的な行政職員の中から語られることが多いという印象を持つ。行政が「参加」領域を決める時、いくばくかの問題がありはしないかと言うのが本稿の関心の一つでもある。
(4)アメリカの政治学者R・Aダールはその著書で、政治学の代表的教科書であると言われている『現代政治分析』 (Modern Political
Analysis fifth edition 日本版は岩波書店 高畠通敏訳 1999)の中で、「なぜ政治の分析をするのか」という問いへの答えは明らかだ、と述べ、その理由について「たとえ無視しようと努めても、私たちが政治から逃れるのは事実上不可能なのであり、それが政治を理解しようとすることの強力な理由である」(p.1)と述べている。そして、政治は並外れて複雑な事象、おそらく人間が直面するもっとも複雑な事象の一つであり、この複雑さを処理する技能をもたないまま、政治を単純化して捉えることを危険なことであると指摘している。筆者の対象とした「政治」は現代日本の一地方自治体の議会であり、非常に小さな対象に過ぎないが、分析の動機はR・Aダールと同じである。例えば、巷間よく聞くように、地方議会は活動的でない、住民の意思を反映していない、と一方的に地方議会を批判し、始めから、地方議会をダメなものであるという主観的認識に立つ事はたやすい事である。しかし、ダールの言うように政治はそれほど単純なものではないし、データを採ることによって見えてくる課題もあろうと思われるのである。

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第一章 地方議会の法的権能と機能

1節 地方議会の法的権能

 地方議会と議員を論じるにあたり、地方議会の現行法上の位置付けを最初に見てみよう。新・地方自治法が2000年4月から施行されるが、議会についての規定は内容的にはそれほど大きな改正はされていない(5)。地方自治体には、議事機関として議会が設置されている。議会の議員の定数は、地方自治体の人口に応じて条例で定めるとされている。(90条が都道府県議会について、91条が市町村議会について)議会の議員の任期は4年であり直接住民から選出される。
 地方議会は三つの場合に解散される。第一の場合は、住民の直接請求が成立した場合である。直接請求は住民の代表者が有権者の3分の1以上の署名を集めて選挙管理委員会に対して請求するものである。直接請求がなされた時選挙管理委員会は解散するかどうか選挙人の投票に付し住民投票で過半数の同意があった時議会は解散される。
 もう一つは、議会が首長の不信任を決議した場合であり、首長は10日以内に議会を解散する事が出来る。首長が解散権を行使した時には、議員は当然その身分を失う。地方自治法が定めている議会の解散は二つのケースに限られている。しかし、議会が自ら一致して解散の議決をする場合も解散出来る。
 従来、議会が多数決で解散を決議出来るかについては争いがあったようである。これを認めると、多数派の政治的思惑で少数派の既得権を奪う事になりかねないので法律に特段の定めがない以上、議会は多数決では解散出来ないと解されてきたようである(6)。
 地方議会は、自治体の政策・行政について審議し自治体の方針を決める議事機関であり、これは行政の執行にあたる首長と並ぶ機関である。しばしば、地方議会は自治体における国会、地方議会は国会議員と同じような役割を果たしていると思われているが、制度上はこれは誤りである。
 次の二つの点で国会と地方議会は性格を異にしている。一つは、国会が立法機関であり、行政権を持つ内閣とは異なった機関であるのに対して、地方議会は立法機関ではない。条例制定権を持つのは議会だけであるし、これは大きな権限だが、直接、行政の決定に参加する事もある。執行機関の行った事について検閲検査を行うなど、行政的権能も有しているのである。もう一つは、国会が国権の最高機関であるのに対して地方議会は地方自治体の最高機関ではないという事である。
 議会は首長とは対等でそれぞれに独立した機関となっている。中央の制度が議院内閣制を採用してしており、行政権(内閣)の最高責任者(内閣総理大臣)を立法府の中からから選ぶのに対して、地方制度はそれぞれ首長と議会が選挙によって選ばれる二元代表制を採っている。これは、議院内閣制に比して、大統領制に近い。わが国の地方制度は特に首長制(組長制)と呼ばれる。大統領制の場合、行政府(大統領)と立法府(上下両院)が完全に分かれ、大統領に議会を解散する権限がないのに対し前述したように地方議会は、行政的権能も有しているし、また首長が議会を解散出来るようにもなっている。二元代表制の下では、それぞれの代表が独立しているので議会が行政執行部全体に対する監督権限を持っている訳ではない。
 地方議会の持っている様々な権能の中で一番重要なのは、自治体の意思を決定する議決権である。議決権の他にある権能としては、調査、同意、決定、承認等、検査、監査の請求などがある。
 議会には、定例会と臨時会があり、定例会の数は条例で定められており、首長が招集する。また、定数の4分の1以上の議員が臨時会の招集を請求した時は首長は議会を招集しなくてはならない。その臨時会で何を審議するかについては議会に任されている。
 議会の審議は本会議で行われるが、今日のように行政が複雑化してくると全てを本会議で審議する事は当然不可能となってくるので条例によって委員会を設置する事が出来るようになっている。委員会には常任委員会と特別委員会があり、特別委員会は特定の会期に限って設けられる。
 地方議員は地方公務員法上、特別職公務員であり地方公務員法の適用は受けない。議員報酬は条例で定められ自治体から各議員に支給されている。以上が基本的な地方議会の法的権能である。

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2節 議会機能と地方議会

 ここで「議会」という機関の持つ基本的機能を確認しておきたい。そして「議会」全般の持つ機能が現在の我が国の地方議会にもあてはまるか検討を加えたい。
 阿部斉(7)によると議会の機能は7つある。すなわち、(1)討論を通じて社会の統合を進める機能(2)法を制定する機能(3)代表機能(4)行政部形成機能(5)行政部を統制する機能(6)政治的指導者を訓練し補充する機能(7)教育機能、の7つである。
 阿部の挙げている各機能のうち地方議会に存在するものとしないものについて見てみる。本稿は地方自治体の二元代表制の一方の主役(統治主体)としての議会の役割を積極的に捉え直し、行政だけではなく、「政治」が地方にも存する状況を否定的に捉えない考え方を提示するものであるからだ。とするならば、このような議会の機能の検証が行われねばならないだろう。
 まず、1つ目の統合機能についてである。自治体内部で世論を二分する(あるいはそれ以上に意見の分かれる)問題がある場合は、その問題が議会内に持ちこまれ、議会での討議によって一つの方向性が決定されるので、その場合、議会は統合機能を果たしたといえる。また、一見すると一元支配が行き渡っているように見える自治体や、自治体内に大きな争点のない場合でも、議会は統合機能を果たしている。選出された代表たちは、日常的にその自治体の問題を討議して共同体の統合を果たす役割を担っているからである。本稿において考察の対象とする、都道府県議会や政令指定都市レベルの議会の場合は、様々な複雑な問題を抱えているので日常的に統合機能を果たしていると考えられる。
 2つ目の立法機能についてであるが、条例制定権が地方自治法に定められているから、明らかに制度として存在している。首長によって議会に提出された条例案を審議し議決するだけの機関が果たして立法機能を充分に果たしていると言えるかは疑わしいという状況が生じているが、本来持っている自治体議会の立法機能をいかに現実に生かしていくかは今後真剣に検討されなくてはいけない問題である。
 3つ目の代表機能についてであるが、議会は住民の代表により構成されているものであるから文字通りの解釈をするなら機能を有している。この問題については、議員は誰をどのように代表しているのかという事が問われる。地域代表であれ(自治体議員は地域代表という性格が非常に強いが、大都市の議会は政党化しており各々の議員も「地域」だけを代表しているという訳では当然ない)労働組合代表であれ、業界代表であれ議員はとにかく何かの代表であるから、地方議会が代表機能を果たしているというのは事実であろうし、議員は選挙で選出された瞬間からその自治体の代表である。が、代表機能というのは抽象的な概念である。代表という概念自体が間接民主主義を前提とした概念であり、直接民主主制につながる住民投票を求める立場の人たちからは最早、代表たる議会は必要ないと言う議論も出てこないとも限らない。「代表」たる議員が住民投票等の直接民主主義を求める動きに対してどのような意識を持っているのかは、非常に興味深いところである。この機能をどう捉えるかは本稿の大きな関心領域である。
 4つ目の行政部形成機能については、周知のように我が国の地方自治制度が二元代表制を採っているので存在しない。  5つ目の行政部統制機能はどうであろうか。この機能も二元代表制下の議会である地方議会には存在しないように思われる。行政部を形成するからこそ統制も出来ると考えるならこの機能も地方議会には存在しないように見える。地方議会は議事機関であり、完全な大統領制による立法機関でも議院内閣制下での行政部形成機能を持った立法機関でもないのでないからだ。しかし、視点を変えると、政策を実施する場合、地方においては大きな政策は「条例」にする必要が出てくる。条例案は通常、行政の各部局でつくられる事が多いが、条例を審議し可決あるいは否決する事によって行政部を統制する(影響を与える)事は出来るので全く統制機能がないとは言えない。つまりは統制をどう考えるかによるのであり、実態がどのようになっているのかによる。つまり、首長と議会がどのような関係にあるかによるという事である。村松・伊藤によれば(8)、首長と議会の関係は「合意型」「対立型」「相乗り型」の三つに類型化される。首長と議会との関係についての検討も後に行うが、議会が行政部統制機能を果たすか否かは首長と議会の関係によると考えることが出来る(9)。
 6つ目の政治的指導者を訓練し、補充する機能については、法律やその他文書によって実証される機能ではないが明らかに存在していると言えよう。国会議員で地方議員を経験している人は多いし、地方議会で長く議員をした人が自治体の首長になる場合も見られる現象であるし、この機能も明らかに地方議会には存在する。国会だけが政治的指導者を訓練し補充する機能を持っている訳ではない。
 地方議会が政治的指導者の人材バンクになるのは望ましいと思われる。官僚支配と俗に言われる我が国の政治の実情(10)を改革しようとするならば、非官僚出身者の政治家を増やすことは多分良いことだろう。政治の素人や民間のある分野の専門家ばかりが国会議員になっても「政」が「官」に対抗出来るとは考えにくい。その点地方議員を経験した人であれば「政治」の側の人間であり「行政」にも精通した人材として、国レベルでも「官」に対抗していく事の出来る人材である可能性はある。その意味においても地方議会は今後一層政治的指導者の訓練機能の充実が求められていると思う。と言ってもこれは、議会という機関が一人一人の地方議員を「指導者」として訓練してくれる訳ではないし、結局は一人一人の議員の自覚と文化の問題にかかっているのであろう(11)。
 7つ目の教育機能についてであるが、マスメディアが発達した現在、地方議会も当然に持っている機能である。議会で審議されている事が有権者に明らかにされる事によって有権者は、自分の自治体で何が問題になっているかを知り、考える事が出来るからだ。 
 以上のように、阿部の挙げている議会の機関として持つ7つの機能、すなわち、統合、立法、代表、行政部形成、行政部統制、政治的指導者の訓練・補充、教育機能のうち行政部形成機能を除く他の機能は地方議会にも備わっていると考えてよい。

第一章 注
(5)地方自治法については、『地方自治法』(自治体法学全集7 兼子仁 磯野弥生 学陽書房 1989)、『地方自治法』(岩波新書 兼子仁 1984)、『新・地方自治法』(岩波新書 兼子仁 1999)、『改正地方自治法のポイント』(地方自治制度研究会編 ぎょうせい 1999)などを参照。議会については今回の改正では、基本的な内容は改正されていない。
(6)『地方自治の法と仕組み』全訂二版(原田尚彦 学陽書房 1995)p.89 (7)『政治学入門』(阿部斉 岩波書店 1996)pp.26-28
(8)『地方議員の研究―日本的政治風土の主役たち』(日本経済新聞社 1986)の、村松・伊藤の分類よると「合意型」とは主要な課題について首長と議会と住民の間に基本的合意がある状態、「対立型」は重要な政策において首長、執行部と議会に対立の生じる型で1970年前後に革新自治体にみられた関係の事である。「相乗り型」は首長選挙の政党連合に多様なパターンがあり、70年代には社共対自民というかたちが一般的だったが徐々に社公民対保守、保守・中道対共産という移り変わりがあったことを指摘している。(pp.108-123)この分類でいくなら今日の京都市は「相乗り型」である。京都市はほとんど市長と議会が同じ方向を向いているため、一見「合意型」に見えなくもないが、市長を徹底的に批判し、常に独自の市長候補を立てる共産党が存在しているので、「相乗り型」である。
(9)本稿で紹介する京都市会と京都市の執行部との関係は「相乗り型」であるが、「相乗り型」で議会側が行政を統制できるかどうかは難しい。地方議会が行政部統制機能を果たすのは議会は首長と全体として、協力関係にありながら(与党勢力が多数の場合など)議会の中の有力議員が、行政に影響力を持つケースなどという事が考えられるのではないだろうか。
(10)『日本の行政―活動型官僚制の変貌』(村松岐夫 中公新書 1994)の中で、村松は、所謂、政党優位論と官僚優位論に触れ、戦後の日本政治研究の流れを紹介し、必ずしも現在の我が国が官僚支配ではないという認識を述べている。(pp.192-200)確かに、国会審議の場による影響力などをつぶさに観察すれば、我が国は政治家がかなりの力を持っているであろうし、特に55年体制が崩れ、連立の時代に入ると重要な決定には政治の力が強く働いているとも思われる。従って安易に日本は官僚が支配しているとする一般的な言説は誤りでろう。にも関わらず、「官」が「政」より強いという認識は根強い。国会審議の場など、限られた局面でどちらが強いかという視点からではなく、広く、世間全般を見渡した時の政党組織と政治家を取り巻くスタッフの少なさや、我が国の社会全般に政治家を育てる空気がないのではないかとの印象があるからではないだろうか。地方議会が今後もっと、政治家を鍛える場としての機能を担う事も必要であると考える。
(11)中西輝政は『なぜ国家は衰亡するのか』(PHP新書 1998)の「第七章 衰亡する現代日本」の中で、イギリスやアメリカの議会が、指導者を養成する機能を持っている事に触れ「優れた政治家になるには、若いときから長く議会でもまれることが非常に大事だと考えられている。実際、議会というものは、若い人たちが大勢入ってきて、ベテランからの優れた知恵の継承を受ける場としてとくに重要なのである。そうしてこそ統治リーダーとしての経験を積むことができるし、文字化されない先人たちの知恵を知る事ができる。どこかの国のように「上り」の場として老人会のような場を形成したり、すでに中年を超えても「若手」としてろくな議論もしないでポスト待ちに終始するのが議会だとしたら、本当の統治の知恵が継承されないのは当たり前であろう」(p.202)と述べている。これは国会について述べられていることだが、議会一般に当てはめて考えてよい議論であろう。地方議会を素人市民の集まる場、市民参加の場とのみ捉える考え方からは、このような議会観は当然、否定されようが筆者は地方議会も政治的指導者を訓練し補充する機能がもっと見直されてよいと思うし、若いうちから国会議員になる事は多くの人にとって難しいが地方議会なら比較的若い人が出易いので、なおさら、この機能が十分発揮されることが期待されると考える。

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第二章 地方議会を巡る議論

1節 地方議会無力論と有意論―先行研究理論の紹介と検討

 さて、地方議会も機関としての議会の機能は、行政部形成機能以外は全て有していることを確認したが、果たして地方政治において、地方議会は欠く事の出来ない重要な機関として市民にも行政にも認知されているのであろうか。地方議会は形骸化して大した仕事はしていないという批判的言説は多く聞くものの、地方議会はよくやっているという肯定的評価をする言説は少なく、大勢は現状についての評価が低いと言わざるを得ない。また、昨今の地方分権の議論が、事務や財源の配分を中央と地方の間でどうするかという行政と行政の関係でのみ論じられており、極端に言うなら中央省庁の仕事が県庁や市役所の仕事になる事が「分権」であるとの議論になっているのではないか、そこでは、地方における政治の主体たる地方議会の事は全く考えられていないのではないかという印象をも持たざるを得ない。
 現状は無力という評価から出発しても、地方議会については諦めて行政への直接参加などの方に期待を寄せる議論と、可能性を秘めているので「しっかりせよ」という議論の二派があるようだ。前者を仮に「議会無力論」とでも名付けるならば、後者は「議会有意論」とでも言うべきものである。行政に対する「優位」なのではなく、存在の意味が無くはないという程度で「有意」論と仮に名付ける。昨今の直接民主主義を求める住民投票などの動きや「参加」を巡る今日的議論は、理論的に代表制民主主義を否定あるいは無視する方向で進んでいるのではないかという感を持つが、これを「無力論」とすれば、「有意論」はこの方向に疑義を抱くものである。ここでは、地方議会についての議論をみる。
 「有意論」の代表として『地方議員の研究―日本的政治風土の主役たち』(村松岐夫 伊藤光利 日本経済新聞社 1986)を挙げよう。この研究で村松・伊藤は、特徴の一つとして、地方議会と議員の持つ可能性について従来の研究に比べると、ずっと高い評価を与えていると述べ、「日本的政治風土の主役たち」の意味について、地方議員が国民の中に深く根をおろしている日本の政治文化と政治構造の接点にいるという認識を持っていること、いわゆる日本に特有の『日本的政治風土』論によって政治全体を説明しようとする立場ではないという事を述べている。
 地方議員が日本政治の土台であることについては、第一に政策の執行が、日本では最終的には市町村レベルでなされることが多く、市町村議会は地方行政機構と並んで政策の質を決める大きな力がある事、第二に地方議員は政治の世界の諸活動の草の根であり、政策の手続きからみると最初の問題感知者であり、しばしば最終的な利益分配担当者である事を指摘し、従来日本の政治学では地方議員はその数ゆえに日本的な「利益政治」の基礎を形成していると見てきたが政策決定過程においてはあまり重要視して来なかった、と我が国の政治学会の地方議会に対する態度に触れ、しかし本当に彼らは政治的決定に参加してこなかったのだろうかとの疑問を提示している。そして、第三に彼ら(地方議員)は「エリート」である反面、政治家でない普通の市民との延長線上でとらえられる要素をもっており、出身階層はバラエティーに富み半素人、半玄人であると続け地方議員の性格について述べている(12)。
 村松・伊藤の考えようとしたことは、地方議員が我々の代表であるというのはどういうことなのか、ということであり、代表の実際の活動内容は、法的にどういう権限を与えられているのかよりも住民がどれだけ代表に任せているか、議員たちがどういう役割意識を持つかによって規定されると述べている。
 また、今日の地方自治体は、広大な役わりを担っているので、一般に議会に期待される任務や課題はほぼ同様に地方議会にも期待されるといってよいが、こうした期待に応えなければならない地方議会の実態については、悲観的な見方が大勢を占めているとした上で、これに対する基本的立場は、実態について大いに改善されるべき多くの点があることに同意しながらも、これまで十分に意識されてこなかったと思われる地方議会の制度としての存在意義を再評価する点にあるとしている。そして、我が国の地方議会は、法的地位ないし権限の点から見れば、首長に比して遜色がないのに議会無能力論が強いとし、その理由について、行政機能の拡大、中央集権体制による地域の意思決定過程からの地方議会排除の傾向、議会自体の実質的能力の低さなどがあるとしている。
 そしてこの三点については、第一に行政機構の拡大による議会の機能の相対的低下は現代民主政治の一般的傾向であって、我が国の地方議会に特有の問題ではない事、第二に中央集権体制にみられる、中央省庁からの首長に委任される大量の機関委任事務が、地方議会の審議の範囲や行政監視の機能を制約している事(しかし考慮しなくてはならない事として、中央政府、官庁、首長、地方議会の意思の方向と力関係に大きな食い違いがなかったり議会が重大な利害関心を持たない場合には、議会はことさら機関委任事務に関与する誘引を持たない事、そして、機関委任事務の多くは、そのような中立的、非党派的で公共性の高い性格をもっている事を指摘している)を指摘し、第三の議会及び、議員自身の実質的能力の問題については、著者たちは通常いわれるほど無能力な存在とは考えてはいないと述べている。
 以上三点にわたる地方議会批判の再検討から引き出せることは、第一点の現代民主政治における議会評価の視点の転換の必要性に加えて従来の地方議会論は、実は無意識にしろ議会をとりまく特定の条件や環境を前提としていたという事、そして異なる条件や環境の下では異なる諸相があらわれるのであるから議会の理解には、その条件と環境の明確化が必要であるということを述べ、さらに、この条件、環境については、戦後の地方議会の置かれてきた基本的環境、舞台背景は共に保守勢力によって支配される中央政府、首長、地方議会の三者間の「近代化」という目標についての合意の存在であり地方の首長と議会の共通の関心は地域の経済的発展であったと説明し、首長と議会の関係が合意型であれば、議会は殊更、首長の基本政策に異議を唱える必要はなく専ら国の利益誘導と地元への世話役的活動に関心と労力を注ぐようになる、と戦後の地方議会が置かれて来た状況についての分析をしている(13)。
 更に「行政実務の論理と代表」の中で、行政実務の論理について、地域社会には解決すべき問題が多くあるが、問題解決をすべき地方政府は、まだ、われわれが代わって面倒をみる必要があるのだという中央官僚の論理であるとし、これに対する論理として「われわれは住民の代表だ」という代表の論理があり、ここに地方自治の可能性があり、この可能性を追求するには最初に紹介した地方議会は無力であるという迷信を取り除き、地方議会は影響力が高いという前提に立ってはじめて地方議会の本来的機能(代表機能や共同体維持機能)の分析が重要に思え、必要になってくるのだと述べている(14)。
 また、日本の行政学・政治学が地方自治の拡大を正しいと信じる学者を多勢持ちながらも、地方議会の機能充実に関心をもつに至らなかった理由としては以下のものが考えられるとし、第一に、日本の地方自治が、二元主義の代表論理に立っているため首長と執行部の自律性を主張することをもって、地方自治の主張だと考えてきた事、第二に首長を自治の中心とし議会を軽く扱うことによって、地方自治推進者の多くは、能率主義を好み実務家の論理の術中にはまってきた事、第三に地方自治推進派のイデオロギーからみて、地方議会の構成は保守的すぎた事を指摘している(15)。
 村松・伊藤の地方議会に対する重要な主張についてまとめておく。1つ目は地方議会を理解するにはその環境と舞台背景すなわち、戦後の自治体では首長も議会も同じ方向を向いていた事が多かったという事実を理解しなくてはならないという指摘である。この環境と舞台背景を見ない地方議会批判は今も無意識に繰り返されている。まずは、地方議会像を転換しなくてならないという指摘は大きなものである。また、地方自治推進論者は結果的に議会を軽く扱うことによって実務家の術中にはまってきたという事は、実は自治推進論者は間接的には中央の官僚を中心とする集権論者を助けてきたということである。また、戦後地方自治推進を正しいという信念を持っている政治学者や行政学者が地方議会に関してはほとんど関心を持ってこなかったのは、彼らのイデオロギーからみて現実の地方議会が保守的だったという指摘は非常に重要である。
 さて、もう一方の「無力論」である。地方議会の現状を無力としながら、ある種の限定された担い手による議会に期待することを述べているものであるが、これはある意味で多数説であるので、いずれでも大同小異だが、代表として、『議会―官僚支配を超えて』(五十嵐敬喜 小川明雄 岩波新書 1995)を挙げておこう。
 彼らは、この中で、地方議会は、立法機関としての役割をまったく放棄して、首長の提案する議会を承認するための「御用機関」となっており、「大政翼賛会」と言ってよいと現在の地方議会を批判し、とくに「大政翼賛会」が顕著になってきたのは、1970年代後半あたりからで、そのころから地方議会では共産党と一部の無所属議員をのぞく総与党体制が常態になりはじめ、自民党や保守会派の議員が独占してきた予算に盛り込まれた公共事業などの「甘い汁」を、野党だった社会党、公明党、民社党などの議員までが自らのため、あるいは支持者のために分け前を要求し、分捕り合戦に参戦したと指摘している。さらに、地方議会の総与党化の大きな理由は別のところにあるということをも指摘している。それは、中央集権体制の進行で、議会が直接口を出せない機関委任事務は増加する一方で、地方をしばる国の補助金は増えつづけ、おまけに霞ヶ関の官僚が知事や自治体の主要ポストに進出してきたと指摘している。そして、自治体は補助金による財政・人事まで中央官庁に支配されており、その結果、都道府県の議会では、自分の地位の確保や補助金、利権の配分に熱心で、まちづくりや福祉などの住民の生活向上のための専門知識をもたない議員がとくに保守系の政党に目立つと述べている。
 その上で、地方議会も目を覚まし、再生の準備に入らなければならない時代がきたとし、自治体は都市計画、福祉、環境、農業などあらゆる分野で、自治体固有の政策をつくり、そのために条例を制定しなくてはならないという事を指摘している(16)。
 五十嵐・小川は最後に市民参加の重要性は認めつつも、やはり議会が存在しないことには「市民参加」は行政にとりこまれるので議会は何にもまして重要である事を強調している。が、重要なことは五十嵐・小川はこれまでと現状の地方議会を評価していないし、その構造に問題があると考えていることである(17)。
 ここで村松・伊藤の日本の行政学・政治学が地方自治の拡大を正しいと信じる学者を大勢持ちながらも、地方議会の機能充実に関心を持つに至らなかった理由として、地方自治推進派のイデオロギーからみて、地方議会の構成は保守的すぎたという先に見た、指摘が思い出される。つまり、五十嵐・小川の「地方議会は眠っているが目を覚まさなくてはいけない」という主張は一見すると、客観的に、地方議会についてこれまでの状況と現状分析をしているようでありながら、実はすこぶるイデオロギー的であり、今、簡単に彼らの議論に与する者たちは長く、地方分権には肯定的でありながら地方議会には関心を払ってこなかった者たちなのである。五十嵐・小川は保守系議員に特に厳しい評価をしており、住民生活の向上のための専門知識を持たない議員が特に保守系の政党に目立つとも述べているがこれなどに典型的にその一方的なイデオロギーが現れている。
 五十嵐・小川は分権が進むと議会はこのままではいけないと言う。この事自体を全面否定する人はいないだろう。自治体の自主立法権拡大などにより地方議会の役割自体が変わるからだ。しかし、機関委任事務のせいで議会が口をはさめない事が多くあり致し方ない面があったとは言いつつも、これまで地方議会と議員が果たしてきた役割と、地方議会の構造をほぼ全否定し、「市民」が増えれば議会が変わるとでも言わんばかりの主張にはいくらか検討すべき問題が含まれていよう。それは、彼らが議会の構成員たる議員の集まり、あるいは背後にある政党また広く政治というものについて全く言及せず「中央官僚支配か分権住民自治か」という二元論でしか地方議会を語っていないことである。既成政党と「市民」を対峙させる構造はそれ自体が政治的主張であり、「利権」を否定し「市民」を強調する議論はある意味では民主主義の否定である。五十嵐・小川はやたらと「市民」を強調する。しかし、実はそれこそが一つのイデオロギーなのではないだろうか。市民に近い政治家、市民としての政治家というのなら理解できるが彼らの言うよう今までの議会、議員引いては戦後の政治・行政システムの多くを否定した後に登場する政治の担い手たる「市民」(18)とは何だろうか。ここで確認しておく必要があるのは、五十嵐・小川的言説は、今の時勢に圧倒的に受け入れられ、おそらく、彼らの読者の多くを全面的に納得せしめるものであろうが、その実、現実の地方議会が果たしてきた機能を無視した一方的、規範的議論に過ぎないという事である。

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2節 地方議会活性化の議論―行政改革の流れの中で

 前節では研究者の議論を見たが本節では今日までの一連の行政改革の流れの中での地方議会活性化の議論を紹介し検討したい。本節を「活性化の議論」と銘打つことは、現状の地方議会は活性化していないという見方に立った議論を既に展開するようであるが決してそうではない。現状の地方議会をどう見るかということは規範的な議論であることをよく踏まえた上でまず、ここでは、行政改革の流れの中での議論を概観しておきたい。便宜上、本節では、80年代以前(戦後から80年代)から、行政改革の流れを記述した上で、地方分権推進委員会第2次勧告の二つに分けて見てみる。地方分権推進委員会第2次勧告を特別に詳しく検討するのは、これが後に閣議決定された『地方分権推進計画』や改正地方自治法に影響を与えたからであり、分権推進委員会が地方議会にどのよう見ていたかを特にていねいに確認しておく事の重要性を感じるからである。
1)80年代以前から分権論議まで  地方議会については、戦後の昭和20年代に導入された、首長制が定着していくにつれて抜本的な改革を求める議論は起こらなかった。原因の一つは地方自治を巡る議論が、国と地方の関係(中央―地方関係)を巡るものに集中し機関委任事務の問題や法律と条例の関係についての議論が多かったためであろう。地方の政治・行政システムの一部である地方議会については政治学者、行政学者、法学者の間で特に問題にされることはなかったようだ。また、政党・政治家からも特に地方議会の改革を求める声はあがってこなかった。
 しかし、行政改革の流れの中では地方議会についてもいろいろな答申、意見書等で言及されることは多くなって来た。  これまでの地方議会活性化の論議について、審議会や地方制度調査会等の地方議会に関する論議を整理した論文として、駒林良則の「地方議会活性化の論議について」(名城大学法学論叢 1998)(19)がある。本節では駒林の論文に依り、80年代以前から80年代の行政改革、更に分権論議が起こってから今日までの、主に政府の審議会や地方制度調査会、民間政治臨調等の答申内容を概観する。
 行政改革以前には、第16次地方制度調査会「住民の自治意識の向上に資するための方策に関する答申」が1976年6月18日に出されている。地方議会に関する部分としては「議会に関する制度の充実」「選挙制度の充実」「住民投票制の拡張」「直接請求制度の改善」の4つが挙げられていた。「議会に関する制度の整備」では議会運営委員会や参考人制度などを設ける事を提案していた。
 また、1979年9月の第17次地方制度調査会の「新しい社会経済情勢に即応した今後の地方行財政制度のありかたについての答申」は「第5地方公共団体の組織運営の改善」の章で、議員定数の決定方法の再検討について、定数の決定基準を「地方公共団体の規模、社会経済情勢の変化等を踏まえ、議会が十分に住民の意思を行政に反映する機能を確保しつつ能率的な運営を期する観点」で検討すべきとの提案をしていた。
 臨時行政調査会の1982年7月30日の「行政改革に関する第三次答申」の第二部第四章「国と地方の機能分担及び地方行財政に関する改革の方策」臨時行政調査会の『5地方行政の減量化、効率化』の中では、地方議会の合理化が挙げられている。 
 行政改革以後となると、臨時行政調査会「行政改革に関する第三次答申」(1982年7月30日)の第二部第四章「国と地方の機能分担及び地方行財政に関する改革方策」の『5 地方行政の減量化、効率化』のなかで「6 地方議会の合理化」について触れられている。@議員定数の簡素化、議員の法定定数について地方自治の本旨と議会の機能に留意しつつ見直しを検討するA議員報酬の適正水準化を要請していた。
 全国町村議長会「町村議会の機能を高めるための方策」(1983年2月)では「議会の権能に関する事項」「議会事務局の充実強化に関する事項」「議会と住民との関係に関する事項」「議会と長との関係に関する事項」「議会と長との関する事項」「その他に関する事項」の7つが提案されている。続く、臨時行政改革推進審議会の「行政改革の推進方策に関する答申」(1985年7月22日)では「3 地方議会及び監査委員の関与の見直し」で議会に機関委任事務の関与、検査検閲権、監査請求権を認めること等を答申している。
「今後における行財政改革の基本方向」(1986年6月10日)では『V 地方行政の改革』の中で@地方公共団体の自主性自律性の強化、A地方行政の簡素化効率化の推進、B地方の時代を担う広域的な行政体制の確立が必要とし、「地方行革大綱」の項で自主的な議員定数・報酬の見直しの検討を求めている。
 第22次地方制度調査会「小規模町村のあり方についての答申」(1989年12月6日)では、小規模自治体に対する基本認識の中で地域振興や合併の円滑な措置等が答申されている。内容は、町村総会の活用、行政委員会等の見直しなどである。
 地方分権論提起以降になると、臨時行政改革推進審議会(第二次行革審)「国と地方の関係等に関する答申」(1989年12月20日)が「W 基本的な考え方」の「多様な地域社会の実現と地域の主体性の強化等」の中で『地方行革の推進』『住民の参加と監視の機能の充実(1住民への情報提供の拡充、2監査委員制度の活性化、3住民参加機会の拡大)』『地方議会への住民の関心の喚起等』『地方公営企業の経営合理化、第三セクターの活用のありかた等』など6項目に触れ、この『住民の参加と監視の機能の充実』の「3住民の参加機会の拡大」では「住民投票や直接請求を始め政策形成等における住民意思の反映・吸収の充実方策のありかたについて検討」する事を答申している。
 政治改革推進協議会(民間政治臨調)「地方分権に関する緊急提言」(1992年12月22日)は『地方議会、首長の選挙制度の改革』の中でa 都道府県議会の選挙制度における自治体の制度選択性、b 市町村議会の選挙における自治体の創意をいかした制度の導入、c 首長選挙における再選挙制の導入と多選禁止、d 地方選挙における「政策投票」制の導入、e 在日外国人に対する地方選挙の選挙権の付与、『地方議会システムの改革』の中でa 全国画一的な委員会制度の改革と議会の活性化、b 市町村におけるシティ・マネージャー制の導入、c 小規模町村における住民総会の積極的活用、d 議会事務局の改革について言及している。
 第24次地方制度調査会「地方分権の推進に関する答申」(1994年11月22日)は『地方行政体制の整備・確立』で「住民自治の充実強化」、「地方議会の改革」について言及している。行政改革推進本部地方分権部会本部専門員の意見(要旨)(1994年11月18日)では「4 自立的な地方行政体制の確立・整備」の中で@地方行政体制の整備A地方行革の推進等B行政の公正・透明性の確保、住民自治の充実強化等C条例制定権の拡大について言及されている。
 地方分権推進法制定地方分権推進委員会勧告における議会の活性化地方分権推進委員会「中間報告」(1996年3月29日)では第三章の「地方公共団体における行政体制等の整備」にU「行政体制の整備と国の支援」があり、広域行政の推進、行政改革等の推進、公正の確保と透明性の向上、住民参加の拡大、地方公共団体における体制整備のための国の支援などに言及されているが地方議会に関する記述はない。
 以上であるが、これらを見ていると一つの特徴が浮かび上がってくる。行政改革の中での議論であるから当然と言えば当然なのだが、いずれも地方議会は地方行政システムの一部分として捉えられている。また、主に二つの事が同時に勧告されている感もある。一つは議会の活性化であり、もう一つは住民参加の促進である。住民の行政への直接参加が進むことは議会の持つ本来的な権限を弱める事だが、これらはこれまでのところ、同じ文脈の中で議論をされてきた感じである。
2)地方分権推進員会勧告  ここでは、地方分権推進委員会第2次勧告の内容を見てみる。地方分権推進委員会第2次勧告を特別に詳しく検討するのは、今後の地方議会を論じるにあたり、地方分権推進委員会(20)が地方議会にどのよう見ていたかを特にていねいに確認しておく事の重要性を感じるからである。
 それでは、地方分権推進委員会勧告のうち地方議会の活性化についての勧告について概要を見てみよう。「活性化」という価値判断を伴う言葉が使われているのは、分権推進委員会が少なくとも我が国の地方議会の現状をあまり活動的ではないと見ていた証左であろう。現在の地方議会が活動であるか否かは当然、意見の分かれるところであるが、ここまで前節で見てきた戦後の議論が一貫して考えてきた活性化論議の延長線上に分権勧告が位置づけらているのは明きらかである。
 分権推進委員会の第2次勧告は第6章「地方行政体制の整理確立」という章の「W」に「地方議会の活性化」いう項目がある。最初の文章を引用する。 「地方分権の推進に伴う自己決定権と自己責任の拡大等に対応し、地方公共団体の意思決定、執行機関に対するチェック等において、地方議会の果たすべき役割はますます大きくなると考えられる。このため、国及び地方公共団体は、次のような措置を講ずるものとする。」
 以上のように分権推進委員会は、分権の推進により自治体が自己決定権を拡大する事により、地方議会の役割も大きくなるという認識を最初に示している。これを読むと、「分権」を、中央と地方の行政内分権(事務の割合など)だけでなく、政治的決定権も含めた分権である事と分権推進委員会が想定していたという事が伺える。
W「地方議会の活性化」は、  1、議会の権能強化等  2、議会の組織・構成  3、議会の運営  の3つの柱からなっている。まず、1、議会の権能強化等から概観する。
1は更に(1)から(3)にわかれている。1の(1)では地方公共団体での首長と議会のバランスを保ちつつ、地方議会の組織に関する自己決定権を尊重し、一層の活性化を図るために国と地方公共団体が講じるべき措置が提案されている。これには2つあり、1つは議決事件の条例による追加を可能とする規定(地方自治法96−2)の活用に努める事であり、もう1つは、国は臨時議会の招集要件(同法101−1)、議員の議案提出要件(同法115−2)、議員の修正動議の発議要件(同法115−2)等の緩和を検討する事である。この2つは、現状の地方議会が制度を活用しきれていないという認識と地方議会に関する国の法律(地方自治法)がもう少し緩やかになれば、地方議会は活性化されるという推進委員会の認識が覗える。
 1の(2)では機関委任事務制度の廃止に伴い議会の権限が拡大する事を踏まえ、議員とそれを補佐する事務局職員の調査能力、政策立案能力、法制能力等の向上を図るための研修機会の拡大、研修内容の充実に努めるものとするという事が提案されている。つづく(3)でも議会事務局について書かれている。(3)では、地方公共団体は、議会事務局職員の資質の向上と執行機関からの独立性の確保を図る観点から、専門的能力の育成強化を図るための共同研修の実施、相互の人事交流の促進等の措置を積極的に講じ、中核となる職員の養成、議会事務局の体制整備努める事が提案されている。
 ここの(2)と(3)で出てくる、議会事務局の問題は、地方議会を考えるにあたって非常に重要な問題なので、章を改めて後に詳しく検討を加える。  この分権推進委員会の勧告で提案されている事は、一言で言うならば議会の執行部からの独立、自立の必要性についてである。根底に現在の地方議会の事務局は執行部から独立していないという観方が存する。
 つづく2では、議会の組織・構成についての改革案が提示されている。2は(1)と(2)からなっており2の(1)では地方公共団体は、常任委員会、議会運営委員会、特別委員会の設置に当たって、その必要性を充分吟味して行い、必要に応じ、本会議中心の運営を検討する事、(2)では国は、議員定数について、地域の実情に応じた見直しが弾力的に行えるよう、人口段階を大括りにするなど、基準の一層の弾力化を図る事が提案されている。(1)は地方公共団体へ(2)は国への勧告になっているが、(1)の主語が「地方公共団体」となっている事は少し違和感を覚える。おそらく、この「地方公共団体」というのは「国」に対する「地方」で、議会を含めたところの「地方政府」(行政執行部と議会を両方含む)という意味で使われているのであろうし、そう考えると問題はないが、議会の中に、どのような委員会を設置するかは議会に任されている事であるのに、この勧告の文章を一読すると、まるで、自治体(行政側)がわざわざ、議会を活性化させるために、議会運営のあり方を変えるように勧告しているようにも読めなくもない。本来なら「地方公共団体の議会は」とあってもよかったのではないかと思う。委員会の設置、廃止は議会に与えられた権限だからである。地方議会は首長と対等の二元代表制の一方の機関であるにも関わらず、その基本がないがしろにされ、行政の一部門として捉えられていたのではないかという印象を持たざるを得ない。
 3では議会の運営についての提言がなされている。3は(1)から(3)まであり(1)は地方公共団体は、議会の公開性を高めるため、本会議、委員会、審議会の公開を一層進め、議会関係の事務についても情報公開の対象に含めるものとする事(2)では議会活動に対する住民の理解を深めるために、地方公共団体は、休日、夜間議会の開催、住民と議会が直接意見交換する場の設定等に努めるものとする事(3)では無投票当選の増加、投票率の低下等の現状にかんがみ、国は女性、勤労者の立候補を容易にするために必要な整備を進めるとともに、専門職、名誉職等議員身分のあり方についても中期的な課題として検討を進める、とういう事が勧告されている。
 (1)と(2)は地方公共団体(3)は国に対する勧告となっている。(2)については、議会の開き方の形態と議会・住民の関係を変える事についての勧告であり、内容的に見て、そう問題はないと思われる。(1)と(3)については、議会のアイデンティティーにも関わってくる内容である。(1)は昨今話題になっている情報公開についての問題である。議会の情報公開は住民と代表の距離を縮める事になるので反対するものは少ないと思われるが、これも「地方公共団体は」とあるのは問題である。行政のある部局が情報を公開するのと同じ様に議会の情報も公開されるべきであるという理屈であろうが、これは、あくまでも、各自治体の議会の主体的な判断に任されるべき性格の問題であろう(21)。    
 次の(3)の勧告についてはいくらかの問題を含んでいるように思われる。特に専門職、名誉職議員など議員身分に関する問題に関しても中期的な課題として検討する事が国に対して勧告されているが議員の身分というものは民主主義の根幹に関わる問題である。
政府の地方制度調査会(22)が地方議会に非常勤議員、名誉職議員制度の導入を平成10年8月に提案したが、代表制民主主義の観点から、専門職(非常勤)議員、名誉職議員の問題は改めて論じられるべき問題であるように思われる。
 以上のように1、議会の権能強化等、2、議会の組織・構成、3、議会の運営の全部で8つの項目から地方議会の活性化が分権推進委員会から勧告されている。概観しただけでもわかる事は、分権推進委員会が現状の地方議会は制度の面でも運用の面でも改革が必要で更に制度改革のみならず、地方議会(地方政治)を取り巻く外部の環境まで改革が必要であるというメッセージを発しているという事である。国に対して、女性や勤労者の立候補を容易にするための環境の整備を進める事を勧告しているというのは、現状の地方議員の構成が自治体を正しく代表していないという認識が存していたのかも知れない(23)。
 ここから、折に触れてサーヴェイの結果を見ていくが(24)、ここではまず、京都市会議員たちの分権推進委員会勧告に対する見方をみてみよう。今、見てきたのは議会の改革に関するところだけであるが、この質問は、政府の地方分権推進委員会の勧告全体に対する評価を聞いたものである。選択肢は「大変評価する」、「まあ評価する」、「あまり評価出来ない」、「全く評価出来ない」、「どちらとも言えない」の5つである。これは程度を聞いた設問であるがコメントもつけてもらった。以下の表1が全体と党派ごとの結果である。

表1 分権推進委員会勧告

  大変評価する まあ評価する あまり評価しない 全く評価出来ない どちらとも言えない
自民党 5.3% 78.9% 15.8%
共産党 68.8% 18.8% 12.5%
民主系 61.5% 15.4% 15.4% 7.7%
公明党 10.0% 80.0% 10.0%
全体 3.4% 53.4% 29.8% 8.6% 5.2%

(質問文)政府の地方分権推進委員会の勧告が第1次から第5次まで出され、今後、地方分権は実施段階に入ることが予想されます。 議会の役割も従来にもまして重要になると考えられますが、地方分権推進委員会の勧告をどのように評価されますか。コメントもいただければ幸いです。

 コメントをいくつか紹介すると「国家(国民)意識が希薄になりつつある今日、あまりにも地方分権意識のみが先行すると国政との関係が乱れてくるので、その点を充分念頭においての分権確立が必要」(自民)、「国の関与がより強くなった。財源(財政)問題が不充分である」(共産)、「地方分権推進委員会の勧告は分権へ向かっての前進ですが、税財源問題に触れられていなかったのが残念です」(民主)、「それにしても財源の裏付けのない地方分権は全くのナンセンス」(公明)などがあった。全体に評価する人の方が多いが、評価しない人はやはり財源問題に触れている傾向が強い。これは地方議員たちが地方政府の一員としての意識から財源の問題にかなりの関心を持っている事をあらわしている。
 また、今、上に見てきた、地方議会改革についての提案についてのどの程度知っているかも聞いてみた。この質問は、内容を知っているかどうかを聞いたものである。「よく知っている」、「大体は知っている」、「あまり知らない」、「全く知らない」の4段階から選んでもらった。各党派の中では民主系だけが「あまり知らない」の比率がやや高かったが自民党、共産党、公明党はいずれも「よく」、「大体」を合わせた「知っている」の比率がかなり高かった。(表2参照)

表2 地方議会改革案

  よく知っている 大体は知っている あまり知らない
自民党 21.1% 63.2% 15.8%
共産党 23.5% 70.6% 5.9%
民主系 16.7% 41.7% 41.7%
公明党 30.0% 60.0% 10.0%
全体 22.8% 59.6% 17.5%

(質問文)地方分権推進委員会の第2次勧告では、地方議会改革案が提案されておりますが、内容をご存知ですか。

 実際の市会議員たちはある程度の認識を持っていると見てよいが内容についてはどのように見ているのであろうか。地方議会に対して厳しい評価がなされている折でもあり、いずれにせよ自分たちの役割は今後変わりつつあるという認識を持っている事は、必要であろう。勧告の内容には、二つの論理が入っている。議会の自立性を進める方向と、住民参加をより推進させる方向である。これ自体はいずれも分権推進下での課題であるが、勧告案もまた、現状認識と過去への評価については非常に低い評価である。自立性とそれを原理的に進めると議会否定につながりかねない住民の直接参加のバランスをどうとるかは課題であることは間違いない。

第二章 注
(12)『地方議員の研究―日本的政治風土の主役たち』(村松岐夫 伊藤光利 日本経済新聞社 1986)pp.2-11 (13)前掲書pp.13-19
(14)前掲書pp.89-90 (15)前掲書p.91 (16)『議会―官僚支配を超えて』(五十嵐敬喜・小川明雄 岩波新書 1995)pp.202-213
(17)ここで、五十嵐・小川は、今までの地方議会をほぼ全否定しながらも一方では地方議会は大切で、いよいよこれから活躍が期待されるという一見するとわかりにくい論理を展開しているのである。これはどういう事なのだろうか。機関としての地方議会が、これまでは眠っていたという認識が彼らに存在するからであるが、もっと大胆に言うならば、彼らはこれまでの議会の主役であった政治勢力を否定しているという事であろう。
(18)例えば、佐伯啓思『「市民」とは誰か』(PHP新書 1998)は最近、ジャーナリズム、論壇、政治の世界等で言われている「市民」という言葉がよく使われるが、「市民」概念について、細かい議論を展開している。佐伯はこの中で、論壇、政治の世界で「市民」や「市民社会」の意味は、はっきりしないまま「市民」は意識の進んだものとして語られている傾向がある事を指摘している。『現代政治学小辞典〔新版〕』(阿部斉・内田満・高柳先男編 有斐閣 1999)によると市民とは「本来的には都市の自由民をさすが、歴史的には、貴族および僧侶に支配されていた封建制を打倒して近代市民社会を生み出したブルジョアジー(bourgeoisie)をさす。あるいは、経済的カテゴリーとしてのブルジョアジーの政治的側面が市民にほかならない。その意味で、市民の特徴は、財産と教養を持つがゆえに自律的に行動しうる点にある。しかし今日では、操作されやすい大衆との対比で、自発的・主体的に政治に参加する人々が広く市民と呼ばれている。〔阿部〕p.193」とある。五十嵐などが「市民」という時の市民像は、都市に居住し、比較的高学歴で公に対する意見を持ち、自発的に公的な事柄に参加していく人々が想定されているようだ。もっと言うならば彼らのいう市民は保守党の支持者や伝統的価値観を持っている人達と理念的に対立するのではないかという印象を持つ。
(19)駒林は「地方議会活性化の論議について」(名城大学法学論叢 48巻2号)で戦後から地方分権推進委員会の第2次勧告までの、政府の審議会や地方六団体等から出てきた、地方議会についての勧告、提言をこまかくまとめている。勧告、提言の内容は大同小異であり、議会の自立性と住民の行政への参加が提案、勧告されている。本稿ではこの、駒林論文にしたがって、時系列的に地方議会に対する提言・改革案の出所と内容をまとめた。
(20)衆参両院の「地方分権の推進に関する決議」を受けて1993年に内閣総理大臣の諮問機関として設置され、第5次まで勧告を行った。この中で中央の地方支配の象徴と考えられてきた機関委任事務制度の廃止などを勧告した。
(21)宮崎伸光「自治体議会における情報公開」(『都市問題』1999年9月号)によると、議会の情報公開について首長は議会を実施期間とする条例案を提案できるかということについては「議会のあり方を決めるのは議会自身において他にはなく、首長にそこまで提案権を認めることは、議会の自律権を侵すことに他ならないとする消極説と、議会も自治体の内部機関にすぎないことを強調し、首長の統括代表権を広く解することで首長による条例案の提案は可能であるとする積極説」の2つがあるとされる。議会が自ら情報公開する事を決めれば何の問題もないが、そうでない時に、首長が議会の情報公開を提案出来るかという問題がおこる。住民の立場からすると議会も自治体の一部門に過ぎないから情報が公開されるに越したことはないが、行政執行部が議会情報を公開するように提案するのは、代表機関に対しての越権行為であるとも考えられるからだ。
(22)総理府主管の審議会で内閣総理大臣の諮問に応じて地方制度に関する事項を調査・審議する。委員の定数は50人以内で、国会議員、地方議員、首長、地方自治体の職員、学識経験者などから内閣総理大臣が任命。1953年、第1次調査会の答申以来、何度も答申を行っている。
(23)政党や運動団体等の政治参加の主体がその団体の思想、主張として政治、社会構造を改革しなくてはいけないという観点から国あるいは自治体に対して、女性や勤労者の政治参加がより容易になる様にするための環境整備(法改正や業界に対する指導)を求めるのはわかるが、政府の中に設置された内閣総理大臣の諮問機関(村山内閣当時に設置)である分権推進委員会が、いわば地方における政治家(議員)の質、タイプを変える事を想定したような勧告を行っているのを見ると、何か奇異な感じがしないでもない。無投票当選の増加や低投票率はそれ自体確かに問題であるが、政治そのものの問題である議員の質やタイプについての問題ととれる事を政府に設置された分権推進委員会が言及しているのは少し奇異な印象も持つ。
(24)本稿文中にしばしば登場する、サーヴェイ・リサーチのデータについての説明を行う。筆者は、本稿執筆に先だって、「京都市会議員アンケート調査」を実施した。アンケートの調査表の市会議員各氏への送付にあたっては、立命館大学大学院政策科学研究科リサーチプロジェクト「分権推進下の自治体行政」の中に1999年7月、事務局を佐藤満政策科学部教授研究室内におき、上記リサーチプロジェクトの田村悦一政策科学部教授、水口憲人政策科学部教授、伊藤光利神戸大学法学部教授、勝村誠政策科学部助教授、および政策科学研究科修士2年吉田健一を会員とする「立命館大学政策科学部地方政治研究会」が設置された。調査表の質問項目は当初同種の先行研究にならって吉田が作成し、それに昨今の情勢を勘案していていくつかオリジナルな設問を加えた。参考にしたものは、「富山・石川・福井三県市長村長アンケート」(佐藤満・干場辰夫『立命館法学』1990年第4号、第5号、1992年第5号)や雑誌『地方議会人』(平成3年4、6、7月号)掲載の「町村議会議員の意識と行動」(村松岐夫・佐藤満)や「石川・福井県の市町村会議員」(佐藤満・干場辰夫 『telos』金沢経済大学人間科学研究所、第5号 1990年)等である。筆者の参考とした調査表(「富山・石川・福井三県市長村長アンケート」の方)自体が先行調査の調査表(主として愛媛大学の北原鉄也助教授(当時)による1985年実施の市町村長調査、1987年実施の市長調査を参考にしたとある)を参考に作成されていたために本調査の設問のいくらかは政治学で行われるこの種の調査の古典的な設問と言えよう。
本稿で折に触れ見ていくサンプルが、実際の京都市会議員を代表しているものかどうか、まず最初に確認しておく。分析に用いる主要な変数である所属政党ごとに実員とサンプルを比較したものが下の表である。高い回収率が得られたが、サンプルに大きな偏りはみられず、おおむね代表していると考えて良いと思われる。

  実員(a) サンプル(b) パーセンテージ(b/a)
自民党 24 19 79.16%
共産党 21 17 80.95%
民主系 15 13 86.67%
公明党 12 10 83.33%
全体 72 59 81.94%

 本稿における、政党と会派についての京都市会での現在の実情を整理しておく。京都市会は、1999年4月の選挙の前と後では会派に変化があった。現在の民主党議員の会派が「京都市民クラブ市会議員団」と「都みらい市会議員団」に分れていたのが「民主・都みらい京都市会議員団」という会派に統一された事である。99年4月の選挙時には同じ「民主党」を名乗った議員を中心とする会派でありながら、選挙前に分れて行動をしていたのは、前者が旧社会党(社民党)を中心とする会派であり後者が旧新進党内の旧民社党系議員を中心とする会派であったからである。旧新進党についてこの際もう一つ記しておくと旧新進党内の旧公明党議員に関しては、新進党結成時、衆議院議員と一部参議院議員が新進党に参加し地方議員は一部参議院議員と共に新進党には参加せず地方政党の「公明」を結成していた事から、京都市会においても、公明党の市会議員は一貫して公明党(「公明」)としての会派を組んでいた。前述した「都みらい」が実質上、選挙時に新進党を名乗った議員の会派であり一時「新進・市民クラブ」という会派があったが、京都市会においてはその人たちはそのまま、ほぼ、旧民社系だったというのが事実である。 
 本稿においては「民主・都みらい京都市会議員団」だけを「民主党」ではなく「民主系」と記述する事にした。それはこの会派には選挙時に無所属だった2人が入っており、この会派だけが他の会派と違って「政党公認=会派」となってはいないからである。
 留意すべきはもう一つある。民主系の中には「京都21市会議員クラブ」の人も含める事にしたという事である。実はこの会派は2人しかいないが完全無所属の人が結成したものではない。1人は社民党の人であり、京都の社民党議員が大挙して社民党を離党して、旧民主党(現在の拡大民主党が出来る前に中央では96年9月に結成された方の民主党)に移った時に社民党に残り、今回の選挙も社民党で当選した人である。もう1人は旧民社党で議員活動をしていたが現在は無所属の人である。いずれも政党に関係のなかった人ではない。流れから本来なら「民主系」の会派に参加していてもおかしくない人たちであり所謂無党派市民を名乗って当選した議員が組んだ会派ではない。様々な理由から民主党と統一会派を組む事が出来ず、敢えて2人で会派をつくった人をデータの上で「民主系」に統合する事には問題もあろう。が、本稿においてはとりあえず、この会派の議員の方の今までの政治・政党歴から「民主系」とした。
 なお、この調査の単純なクロス解析の結果は「京都市会議員アンケート調査報告書」として簡単な冊子にまとめ、全京都市会議員の方々にお返しした。また、更に、いくつか会派ごとに回答結果が分れた設問についての詳しい分析をした論文として「地方議会会派の対抗軸―京都市会議員調査より―」を筆者の指導教授、佐藤満教授との共著でまとめた。(『政策科学』7巻3号 2000年3月 柴田弘文・宮本憲一・田村悦一教授退任記念論文集に掲載)

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第三章 市民参加の論理―地方議会と市民

1節 「市民の議会」論について

 前章1節で見たように、地方議会不信論者や積極的に地方議会の改革を説く者は「市民」を盾に議論を展開している。そして、そのような論者は現状の地方議会を古臭くて革新されるべきものと見ている事を確認した。また、一連の行政改革の中でも絶えず地方議会は改革の対象であった。その中には議会の活性化を考えると共に、市民参加の拡大を求める勧告も多くあった。本章ではその市民参加の論理について順を追って検討する。本章は2節からなり、1節では松下圭一の「市民の議会」論についての紹介と検討、2節では市民の勢いが強まり、情報が市民に公開され住民自治がよりいっそう進むなら、当然出てくる原理的な問題である、住民投票など直接民主主義と間接民主主義の問題について考える。本章は議会と市民の関係について、とりわけ市民の側からの議会に対するアプローチを見ることで現在の地方議会の課題を詳しく見る。
 これまでは自治体は国の下請け機関として国(中央省庁)の決定した政策を機関委任事務として、執行するのが主たる仕事だった。それが分権化することによって国の下請けの執行機関の性格から、独立した「地方政府」としての役割を果たすようになってくると少なくとも理念の上では考えられることとなる。そうなれば当然地方議会も国の統治機関の下請け的性格から地方政府の立法機関としての役割が重大になるとともに、今までとは位置付けも変わってくると考えられる。まず、松下圭一の自治体議会に対する改革構想を紹介する。松下の言う「市民の議会」論は『自治体は変わるか』(岩波新書 1999年)で述べられている、今後の自治体におけるあるべき議会像である(25)。
 ここからは、松下の議論を概観する。自治体はこれまで財源の自然増をつかって施策展開をはかってきたが、国と同じく自然増がないだけでなく、短期ではかえせない巨額の債務がかさなってきた今日では、施策・計画のスクラップ・アンド・ビルドをめぐって、法務・財政の熟度こそが、議会にも求められており、議員が無駄な施策をつかって票田をたがやすというような考えを転換すべきであるとまず、議員が意識を変える必要があることを指摘している。
 現状の自治体の首長と議会について、制度としては、首長・議会の二元代表の緊張を持つにもかかわらず、議会事務局の未整備、さらに首長によるその人事掌握とあいまって、首長の部課職員がシナリオを書き、議会ないし議員を演出している事を指摘し、議会・首長の二元代表は空洞化するといわざるをえないとし、議員は、国が制度化している監査委員、都市計画審議委員会などは制度改正まではやむをえないとしても、総合計画の策定委員をはじめ各種審議会委員の兼務は自ら止めるべきであるとしている。首長から議案が提出されるたとき、すでに審議委員会委員というかたちで議会への根まわしは終わっていることになるので、二元代表という首長・議会間の緊張がくずれるとともに、二権分立という仕組み自体が自壊する結果となっている事の問題点を指摘している。
 そして、議会は市民主権を土台とし、市民の選挙によって成立する市民の「代表機構」であるにもかかわらず、選挙が終われば「国家統治」の下請け機関として市民に君臨しがちで、「住民投票」を議会の否定とみなすように、議会はその権限を特権として強調しがちであると地方議会が国の下請け機関になっていたことと、それにもかかわらず市民には特権を強調してきたことを批判し、あるべき、「市民の議会」論の展開をはじめる。
 「市民の議会」となるにはこれまでと逆の考え方をすべきであり、それには、まず従来の「議会会議規則」ではなく、自治体の「基本条例」あるいは「議会基本条例」のなかで招集、組織、会期、公開、参加などを規定することを考えるべきであり、さしあたり、新・地方自治法は機関委任事務を廃止したのだから、いずれかの基本条例を制定し、審議・調査・立法をめぐる権限をひろげる改革もできると述べている。そのとき、議会は首長が市民会議をおこなっていると同じく、本会議ないし全員協議会の主催で市民会議をひらくことができるのであり、それは各自治体の基本条例などで工夫すればよいと述べている。委員会での「公聴会」「参考人」というかたちでの市民参加の制度化をもう一歩進めることもでき、また、委員会ないし委員会協議会が直接に市民会議をひらいてもよいとも述べ、議会は、独自に本会議あるいは委員会で、自由討議をおこない、最終的には首長との合意が必要だが、政策・条例の立案を積極的におこないうるとし、自治体議会自らがそれぞれ議会に関する基本条例をつくることや市民参加の制度化、議会が自由討議開くことなどを提案している。
 自治体議会が、なぜ、以上のような活動をしないかということの原因としては、戦後の自治体議会発足時に、戦前型の国の官僚内閣制による国会運営をモデルとした官僚法学、講壇法学にもとづいて自治体議会解説書が書かれたためであるとし、これが議会運営の基準として、その後定着したことを指摘し、1947年に内務省系官僚がつくった「都道府県議会会議規則準則」がモデルとなり、1965年の「標準都道府県議会会議規則」以降見直しが幾度か行われたにもかかわらず、実質は変わらなかったとし、地方六団体は自治省がおさえこんでいるので市議会、町村議会もほぼ同型で、官製モデルがある事から、個々の自治体がわずかに独自性をみせても、日本の自治体、自治体議会は国の官治・集権政治にくみこまれて個性を発揮できないという実態を指摘している。
 また、自治体では「陳情・請願」という市民主権に反する官治型法制用語も『地方自治法』で改正できるまでは、各自治体の基本条例で議会慣行のくみかえとして改めるべきであるとし、議会は、ひろく傍聴や中継に開かれるだけでなく、新しい議会慣行あるいは基本条例の策定によって自由討議を多くし、そこに市民参加の手続きをとりいれ、議会の多様な情報・意見さらに政策構想をふくめて、新聞方式から電子方式などいずれをとわず、議会独自に公開すればよいと述べ、自治体議会の自立性を高めるために、党議拘束をはずした議員間の自由討議中心に議会を運営することを提案し、自治体レベルの基本法となる「基本条例」をつくり、「市民の議会」となるように各議会はそれぞれ自由な工夫をおこない、これまで「標準」や自治体議会解説書などとは決別すべきであるとしている。
 また、自治体議会は、市民の利害・意見間について個別施策間の調整のみならず、今後は自治体基本条例、自治体総合計画(基本構想)を策定する推進力となり、首長・議会の二元緊張の弱かった、これまでのような行政主導の議会運営を変えて行くことになるとも述べている(26)。
 以上が松下の「市民の議会」論であるが、松下は先に見た、五十嵐・小川とは違って政治の担い手を一定の市民に限定していない。五十嵐・小川の地方議会観が地方議会に期待しているというかたちを取りながら、その実、地域社会の総合的な政治・行政の担い手として議会を見ているのではなく、議会の担い手を一定の政治勢力に限定しているという感じであるのに対して(27)、松下は少し趣を異にする地方議会観を持っている。地方政治の担い手を一定の市民に限定した上での議論を展開すると言うよりも、中央が決定した枠組みである「地方」から地方が自ら脱却し、自治体の議会自身が、自治体の議会の在り方を決めるべきであるというところに議論の力点がある。議会と「市民」を対立させていないのであるから、この論理では、各々の地方議員が自信と誇りを持って、自分たちの議会の在り方を決定すれば良いという事になる。その中にはいろいろなタイプの議員がいて良いし、その時に、議会がそれこそ市民に呼びかけて、基本条例の原案や議会についての条例案について募集しても良いのではないだろうか。
 さて、現状の議会の対する批判の背景には、議会が活性化していないという現状認識が存在しているのだが、分の悪い感のある現実の議員は議会をどう見ているのだろうか。 
 表3は、京都市議に対する「市会の印象」を聞いたものである。選択肢は「極めて活動的である」から「まったく活動的でない」までで、4段階の中で1つを選んでもらった。

表3 市会の印象

  極めて活動的 まあ活動的 あまり活動的でない
自民党 21.1% 47.4% 31.6%
共産党 5.9% 47.1% 47.1%
民主系 7.7% 53.8% 38.5%
公明党 10.0% 70.0% 20.0%
全体 11.9% 52.5% 35.6%

(質問文)京都市政についての質問です。あなたは京都市会についてどのような印象をお持ちですか。

 結果は「まったく活動的でない」については皆無だった。「極めて」と「まあ」を合わせると64.4%の人が京都市会を「活動的」と見ている。6割強の議員は京都市会を「活動的」と見ているのである。この質問は「活動的」かどうかという抽象的なことを尋ねたもので、回答はそれぞれの人の印象であるから、何をもって活動的(あるいは活動的でない)と考えているかは議員によって異なると思われる。とは言うものの議会不信論者が言うほど当の議会人自身は議会を「活動的でない」、「眠っている」という認識を持っていない。議会批判論者は有無を言わさず議会は活動的でないと言い、議員の質が低いと批判し、そこから市民の参加、市民の議会論を展開するが、本人たちはそれなりにやっていると考えているのである。随分と議会批判論者の認識と開きがあると言える。
 市会議員諸氏が将来の希望、プランについてどう考えているか聞いた設問もここで、見ておく。選択肢は「市会議員として将来もやっていく」、「市長村長に出馬したい」、「府議会議員に出馬したい」、「知事に出馬したい」、「国会議員に出馬したい」、「今期で引退したい」、「まだ考えていない」、「その他」の8つである(表4参照)

表4 将来の希望

  市会議員 市長村長 国会議員 考えてない その他
自民党 61.1% 5.6% 11.1% 11.1% 11.1%
共産党 56.3% 25.0% 18.8%
民主系 53.8% 7.7% 23.1% 15.4%
公明党 50.0% 10.0% 20.% 20.0%
全体 56.1% 1.8% 7.0% 19.3% 15.8%

(質問文)あなたは、政治家としての将来に、どのような希望、プランを持っておられますか。

 「その他」の中には「答えられない」というものや「選挙民が決める」というものなどがあった。「市長村長」、「国会議員」などは比較的少なかった。多くの議員は、このまま市会議員を続けて行きたいと考えている。勿論市会議員を続けるためには4年に1回再選されなくてはいけないのだが希望として続けて行きたいと考えている人が一番多かった。「考えていない」が次に多くあったのは議員(政治家)というのはいつ何があるかわからない、激しい仕事で、運に左右されることも多いので臨機応変に行くという考えを持った人がいくらかいるということであろうか。
 いずれの党派でも「市議」が最も多く次いで「考えていない」だった。この結果から見ると組織政党の共産党、公明党の議員であっても将来的に市議を続けて行きたいと考えている人の比率はかなり高いことがわかる。現に市議の職にある人たちが将来の希望・プランで最も多く「市議」を挙げていることは京都市会議員が、自分たちの仕事に高い誇りを持っているということであろう。
 とは言え地方議会に批判的な論者が「議員たちが議会は活動的といっているからやはり議会に任せておこう」といわないのは当然であろう。また、このデータは五十嵐・小川に代表される地方議会観に対し何の抵抗する力も発揮しないと思われる。しかし、この議員たちの自己認識では議員は活発に動いている。そして、今後とも市議を務めたいと考えている人が多数派だ。これは明らかに、地方議会批判論者の指摘する問題が、現実の議員たちの果たしている役割を見過ごしているのか、議員がやっている事自体が問題だと考えているのかということになる。
 議会批判論者の中心的な批判の理由は活発かどうかということもさる事ながら、住民の意思を正当に議会が反映していないという認識が根底にあると思われるのだが、次節では、住民投票を巡る議論を検討する。

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2節 地方政治の対立軸―住民投票を巡る議論

 ここでとりあげる住民投票を巡る議論は、「市民参加」の論理を進めていけば必ず行き当たる問題である。ここでは現代の地方政治の対立軸であると考える事が出来る住民投票を巡る議論について考察したい。
 ここ数年話題になった、住民投票で大きかったのものは、新潟県巻町の原発問題と沖縄県の基地問題に関するものであろう。そして、吉野川第十可動堰問題でも2000年1月23日に住民投票が行われた。吉野川河動堰の場合は議会で住民投票をする事を決定しているし、巻町の場合は住民投票実施を公約に掲げた市長が当選し、住民投票が行われた。(この市長は2000年1月再選されている。)いずれも選挙で選ばれた首長や議会が決めたことで、住民投票をすることを求めた人達も選挙という間接民主主義のルールにも参加している。山口二郎の言うように(28)住民投票を求める動きは必ずしも議会を否定するものではないという事である。一連の住民投票を巡る動きは首長や議会の選挙とも関連している。この事から、「住民投票を求める運動=直接民主主義を希求するもの」とは言えないようである。冷静に考えると住民投票を求める動きは各地で直接民主主義を求める動きが顕在化していると見る事ができる一方、間接民主主義の制度も使いつつ顕在化してきているわけである。本節のテーマは「地方政治の対立軸」であるが必ずしも住民投票が間接民主制と真っ向から対立するものと位置付けられるものではない。まず、先にこの事を確認しておく。結果的には議会は住民多数が反対することは決定できないし首長も多数の議員の反対することは執行できないことになるからである。また、最近では名護市長が、海上ヘリポートを受け入れ表明をした後一度辞任して出直し市長選挙に出馬することを宣言するというニュースが報道されたが(1999、12、1)これなど民主主義の現行の制度に則って一つの争点に対する、住民の支持、不支持を確認するという意味あいがあるので間接民主制で直接民主主義的実験を行うというものである。しかし、やはり住民投票の結果に議会や首長が拘束されるのかという問題は残るし、議会が住民投票の実施を行わない事を決定するという事もある。  筆者の実施したアンケート調査では次の2つの質問が、この問題を考える際の材料になろう。1つは「住民運動等をどう見るか」でもう1つは「直接民主主義の動き」である。この2つの設問は似ているが聞いている事の内容が違うので、1つずつていねいに見て行きたい。まず「住民運動等をどう見るか」から見てみる。「ずっと」、「少し」「増えた方がよい」と「今ぐらいでよい」と「ずっと」、「少し」「減った方がよい」の5つの選択肢から選んでもらった。全体と各党派ごとの回答の比率を見てみよう。(表5参照)

表5 住民運動等をどう見るか

  ずっと増 少し増 今ぐらい 少し減 ずっと減
自民党 11.1% 16.7% 33.3% 16.7% 16.7%
共産党 100%
民主系 25.0% 41.7% 6.7% 8.3% 8.3%
公明党 33.3% 44.4% 11.1% 11.1%
全体 44.6% 21.4% 16.1% 8.9% 7.1%

(質問文)あなたは、住民運動や市民運動などの政治参加の機会についてどのように思われますか。

 自民党が「ずっと」と「少し」合わせて「増えた方がよい」が27.8%、「減った方がよい」が33.4%とどちらかというと住民運動や市民運動などの政治参加の機会が減った方がよいと思っている人の割合が高いのに対して、共産党は「ずっと増えた方がよい」が100%であったのは明らかに両党の特徴を表していると見てよいだろう。民主系は、「増えた方がよい」の合計が66.7%、公明党は、「増えた方がよい」の合計が77.7%であるから、自民党以外の党派は住民運動や市民運動の政治参加が増えることに対して肯定的に見ていると考えてよいだろう。
 共産党の市議の全員が「今よりもずっと増えたほうがよい」と考えている事からは、共産党と協力関係にある住民運動や市民運動が多いということであるのかも知れないという仮説が容易に立てられる。勿論、住民運動、市民運動にも一つのテーマについて長い期間にわたって活動しているものから、一つの争点がある地域に起こった時にはじまり、一定の解決をした時に解散するものなど様々なタイプのものがあり一つの概念に括ることは無理があるのだが、共産党がこれらの運動が政治的に影響力を持つことに好意的であることは確かのようだ。
 続いて「直接民主主義の動き」についてもここで見ておく。この設問は、先に見た、住民運動や市民運動の政治参加の機会についての質問とやや似ているところがあるが、こちらは直接民主主義と間接民主主義に関する設問である。この設問も基本的には程度を聞くものであるが、コメントのある場合は書いてもらうことにした。選択肢は「住民自治の観点から考えて大変望ましい」、「基本的に望ましいが、問題によっては望ましくないこともある」、「基本的に望ましくないが、問題により直接民主主義を求める動きがでてくるのは望ましい」、「代表民主制(間接民主主義)を脅かす動きであり非常に望ましくない」「どちらとも言えない」の5つである。(表6参照)

表6 直接民主主義の動き

  大変望ましい 基本的に望ましい 基本的に望ましくない 非常に望ましくない どちらとも言えない
自民党 5.3% 26.3% 42.1% 15.8% 10.5%
共産党 94.1% 5.9%
民主系 16.7% 66.7% 16.7%
公明党 40.0% 30.0% 30.0%
全体 32.8% 31.0% 19.0% 8.6% 8.6%

(質問文)最近、我が国では、沖縄県や新潟県巻町等の住民投票、神戸空港建設問題、更に徳島県吉野川河動堰問題に見られるように、直接民主主義を求める動きが顕在化してきております。 あなたは、住民投票をはじめとする直接民主主義を求める動きについてどのようにお考えですか。また、コメントもいただけると幸いに存じます。

 共産党が「大変」、「基本的に」を合わせると100%が「望ましい」であるのに対して、自民党では「大変」、「基本的に」を合わせても「望ましい」は31.6%であった。民主系は83.4%が「大変」、「基本的に」を合わせた「望ましい」であったが、この設問も党派による特徴があらわれていると見てよいだろう。コメントを党派ごとに一人ずつ紹介しておくと「政治の世界に絶対はない。どんな良い政策でも必ず反対論はある。住民投票をする場合でも、全市民に関係する問題であれば関心も高くなるが、一部の住民の利害だけに関わる場合もよくある。だとすると、宣伝勝ちということになるケースもよくあるので一口に賛否を言うのは難しい」(自民)、「議会としても住民の意見を聞くことは大変重要だと思う。賛成にしろ反対にしろその時の住民の意見を議会に反映すべき」(共産)、「地域住民が直接、自らの要求について発言し行動するのは民主主義の原点ですが、地域エゴだけになっては望ましくないこともあると考えます」(民主)、「現在の直接民主主義を求める動きは、多くが特定政党の党利党略であり、問題の本質を市民が充分理解せずに誤った判断を市民が出してしまう危険性がある。まず、代表である議員がもっと勉強し考えなくてはならない」(公明)などがあった。
 住民投票を求める動きが、直ちにあらゆる政策分野に対しての直接民主主義的手続きを求めるものでは決してなく首長の選挙や議会の議員選挙という代表制民主主義の制度の活用とも連携した動きが多いことは先に確認した通りであるが、問題は代表(首長・議会)とある争点を巡る地域住民の総意(あるいは多数意見)が食い違った時に起こる。住民の多数意見と思われるものが議会の多数の意見と一致している場合や、首長の執行しようとしている政策が一致している場合には殊更住民投票をする必要はないからである。問題は住民と議会の間に食い違った状況が生まれて来つつある場合に議会や首長は住民投票を行う必要があるかという事と仮に住民投票を行った場合に議会や首長は住民投票の結果に従うべきかということの二点である。法的には議会も首長も住民の多数意見の通りにしなくてはいけないという定めはない。首長や議員が有権者の審判を受けるのは選挙であるからだ。条例で、住民投票を行うと議会が決定しその条例が同時にその住民投票の結果の多数意見に行政が従うという事を決めるか、議会が住民投票の結果の多数意見に従うという決議を行った時は議会も行政もその住民投票の結果に従うことになるであろうが、難しいのは自治体内で対立が収まらない時であろう。住民投票と言えば民主主義の一番身近な制度でこちらが正しく、住民から少し離れた代表たる議員の決めることは正しく民意を反映していないと捉える向きもあろうが、議会が持っている機能に調整機能もあるわけであるからやはり、ある程度、最後は代表機関たる議会に決定を委ねなくてはならないであろう。
 サーヴェイデータに戻るが、昨今のメディアの論調や「参加」を強調する人や、市民の自治を強調する人の多さから、住民投票の実施や、その住民投票の位置付け方については圧倒的に肯定的に見ている議員がどの党派にも多いのではないかという予想も出来たがデータから見る限り一概にそうではない事が明らかになった。共産党の議員が「大変」と「基本的に」を合わせ全員が「望ましい」と答えているのは、この党の議員たちが住民運動や市民運動の政治参加についても、100%が「ずっと増えた方がよい」と答えているのとも関連していると見て良い。これは共産党議員が今の行政に対し、住民、市民の意見を真に聞いてはいないという認識を持っているのと同時に、行政の施策や議会の多数派の進める(つまり首長与党は行政の施策を後押しする)事柄に対して反対する人たちの運動が政党レヴェルでは特に共産党と結びつく傾向があるからかも知れない。完全に直接民主主義になると論理的には議会も要らないし共産党という政党も要らないということろまで行きついてしまうが、現状ではまだまだ、住民投票を求める動きが出てくる事を住民自治の観点から望ましいと考え、もっと住民運動や市民運動の政治的影響力が増加する事が望ましいと考えている事は確かのようである。
 これに対し自民党の議員は「大変」と「基本的に」を合わせた「望ましい」は31.6%で「望ましくない」が57.0%と完全に上回っていた。これは住民投票を求める動きや直接民主主義を求め、どちらかと言うと議会を敵と見なしてくる勢力や各種の住民運動、市民運動と近い間柄にある政党がライバルの共産党(29)であるということにも原因があるのかも知れないが、その事を割り引いて考えても自民党の議員たちの頭には議会は統治機構としての役割も大切であるという考えがあるからではなかろうか。議会は住民意見の反映が大切な仕事ではあるものの、選挙に当選して選ばれた限りは自分たちの意見が少なくともその任期中には住民投票の結果よりも優先されるべきだという考えがあってもそれは別に反民主主義的な考え方ではない。
 ここでは地方政治の対立軸として二つの考え方が存在していることを確認しておく。二つの考え方とは住民投票を巡る議論について住民投票を肯定的に捉える立場と否定的に捉える立場である。ここで確認したいことは厳然とこの二つの立場が存在するということであり、これは理論上だけでなく現実に市会議員たちの意見にも表れているという事である。言うまでもないことであるがこれは民主主義に対する考え方の代表的な二つのパターンであり、どちらかが民主主義的でどちらかが反民主主義的であるということではない。今日、住民運動や市民運動の政治参加の必要性はそれ自体大いに首肯出来るとしても住民投票に対し否定的な議員が民主的でないから議員にふさわしくないとする議論に直ちに結びつくようなムードはやや危険を感じるという事を指摘しておく。
 何故ならば、しばしば住民投票のテーマになること―基地や原発といった高度な公共性を有する施設の建設の是非など―が特定地域の住民投票という次元のレヴェルでの「民主主義」の文脈で語られて良いのかという問題が残るからである。また、このアンケートの結果の分析から見ても分かるように、住民投票、直接民主主義を希求する動き・思想がそれ自体、政治的主張、政治運動に他ならないからである。本稿は議員の意識調査とその結果分析から、現状の議員像を浮かび上がらせ機関としての議会をどう見るかという事について考察する事が目的であり、市民運動や直接民主主義についての論点を整理し議論を展開するのが目的なのではないので、この問題について深く言及はしないが、注意が必要なのは、先に見た、現状の地方議会批判論者や「市民」を盾に議論を展開する論者はまさに、この「住民運動等をどう見るか」と「直接民主主義の動き」で住民運動等の政治参加や直接民主主義の動きに消極的な議員(主に保守系会派の議員)を古いタイプの議員とし、総否定するもの達であるという事を押さえておかなくてはならないという事である。

第三章 注
(25)『自治体は変わるか』(松下圭一 岩波新書 1999)「2 自治体議会に構想改革を」(p.58-)に述べられている。 (26)前掲書pp.61-75
(27)五十嵐・小川の議論と松下の議論、地方議会観は明らかに同じではないのだが、「市民」という言葉を共に使っているところに注意が必要である。五十嵐・小川の市民は、現実を否定されるものとした上での新しい政治の担い手としての「市民」が登場する。これは五十嵐・小川が『市民版行政改革―日本型システムを変える―』(岩波新書 1998)という文献のなかで終始、官僚に対し「市民」を盾に議論を展開している事からも明らかである。
(28)山口二郎は『日本政治の課題―新・政治改革論』(岩波新書 1997)の中で、「まず、政策決定の手続きの面から、なぜ、住民が直接民主主義を求めたかを考えてみたい。そもそも、従来の議会という代表機関が地域の将来について十分議論し、その過程と結果を住民に対して報告していたならば、住民の議会に対する不信感はそれほど大きなものとはならなかったであろう」とした上で、現実の議会が形骸化しているという指摘をし「自治体において住民投票を求める運動が盛んになってきたのは、議会政治を否定するためではない」(p.141)と述べている。
(29)京都市会では現在、自民党が第1党であるが24議席であるのに対し、共産党は第2党で21議席を持っている。他の自治体に比べ、共産党の勢力が極めて強いことから自民党議員には他の地方議員以上に共産党に対するライバル意識が強いかも知れない。

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第四章 地方議員の意識構造

1節  地方議会の政党化とアマチュアリズム

 本節においては、地方議会の政党化とアマチュアリズムの問題について中心的に考えたい。端的に本節の関心内容を述べると、市会議員が「政治家」としての属性を持っているのか否か、持っていると考えられるならばそれはどの程度のものであり、どのような意味において彼らは「政治家」なのか、あるいはどのような意味において、アマチュアなのかということである。先に見てきた、村松・伊藤『地方議員の研究―日本的政治風土の主役たち』にも地方議員は「半玄人・半素人」であるという指摘がなされているが(30)、この問題を議員たちの意識面から探りたい。これまでの各章においてもサーヴェイデータによっても市会議員たちの意識を見てきたが、今までの章は言わば一つ一つに問題に対しての考え方を聞いてきたのものが多かった。ここで主に見て行きたいのは争点に対しての考え方というよりも議員たちが自分たち自身をどう見ているのかという議員の自己認識についてであり、いわば議員のアイデンティティーについての考察をしたい。本章を「地方議員の意識構造」としたのは議員の自己認識について見ておきたかったからだ。まず、いくつかのサーヴェイデータから議員の政治家としての自己認識に関するものを見て行く。その後、アマチュアリズムの問題についても考えてみる。まず、サーヴェイデータの中から、ここでは「中央の政党再編」、「地方政治と中央政治」、「中央の政党数は」の3つについての市会議員の意識を見てみよう。
 まずは「中央の政党再編」について見る。この質問は、中央政界の政党再編をどう考えているかについて近いものを1つ挙げてもらった。この設問は、程度を聞いたものでも相対立する選択肢から1つを選んでもらったものでもない。選択肢は「政党あっての議員なので中央政界の動きは無視できない」、「政界再編(政権の枠組みの変化)のたびに迷惑を被った」、「自治体議員の仕事に専念しており、中央政界の動きは殆ど興味がない」、「自分の所属している政党は、中央政界の政党再編と無縁であった」の4つである。選択肢の1と4、2と4は対立するが1と2は重なるところもあり、また本来2の状況に直面した人でも、意識的には3という人もいるかもしれなのでこの設問は他の設問と性格を異にしている。この設問からは議員がどの程度「政治家」(政党人)としての側面を持っているのかが読み取れる。自治体議員の本分は自治体の仕事であるから政界再編をどう捉えたかというよう設問は自治体議員向きではないかも知れないが、「政治家」としての市議を確認するためには重要な設問である。全体と党派別の結果は表7である。

表7 中央の政党再編

  政党あっての議員 政界再編の度に迷惑 自治体議員に専念 政界再編と無縁
自民党 61.1% 16.7% 11.1% 11.1%
共産党 37.5% 6.3% 56.3%
民主系 30.8% 46.2% 23.1%
公明党 90.0% 10.0%
全体 52.6% 17.5% 10.5% 19.3%

(質問文)あなたは、地方政治家として、中央の政党再編をどうお考えですか。近いものを1つお選び下さい。

 この設問の回答は党派によって大きく分かれた。「政界再編のたびに迷惑」が民主系は46.2%と他の党派に比べて高かったがこれは、現在の民主系の議員が、旧社会党、社民党、旧民主党、現民主党と党籍を変えてきた人や、旧民社党、旧新進党、旧新党友愛、現民主党と党籍を変えてきた人によって成り立っていることや民主党に不参加の人も何らかの決断を迫られたためであろう。「政党あっての議員」は公明党の人が圧倒的に高く90.0%の人がこれを挙げた。地方議会の公明党議員は旧新進党には参加せず「公明」を結成していたので一貫して同じ組織で行動してきている。従って直接の政界再編の影響は受けなかったかも知れないが、政党の組織なくして議員の立場はないと考えているようである。共産党では「中央政界の再編とは無縁」が56.3%と最も高かったのは当然としても「政党あっての議員」と回答した人もある程度にのぼった。自民党も「政党あっての議員」を挙げた人が最も多くいたわけだが、これは共産党や公明党のように政党の組織あっての議員というより政党の看板を背負っていることが選挙の時に大事だという認識の現れであろう。
次に「地方政治と中央政治」について見てみる。この質問は、中央の政治的問題を地方政治の場に持ちこむことの是非について聞いたものである。「中央の政治的問題を持ちこむのはよくないという考えがあるが、どう考えるか」という聞き方で選択肢は「非常にそう思う」、「そう思う」、「あまりそうは思わない」、「全くそうは思わない」の4つから選んでもらった。設問がやや誘導的で、一読しただけでは意味がとりにくく普通に「そう思う」に印をつけてしまいそうな感じの文だったので良くなかったかと思ったが、回答は分れた。全体と党派別の結果は表8である。

表8 地方政治と中央政治

  非常にそう思う そう思う あまりそうは思わない 全くそうは思わない
自民党 10.5% 47.4% 26.3% 15.8%
共産党 11.8% 5.9% 82.4%
民主系 69.2% 15.4% 15.4%
公明党 10.0% 40.0% 50.0%
全体 5.1% 40.7% 22.0% 32.2%

(質問文)地方における「政治」と「行政」の関係についてお伺い致します。地方政治に中央の政治的問題を持ち込むのはよくないという考えがありますが、あなたは、どうお考えですか。

 地方といえども、やはり行政の問題だけが存在しているのではなく、中央の政治的な問題も争点にすべきであるという考えが厳然と存在していることを示している。この設問は市会議員がどの程度、政治家としての意識を持っているのかを調べた前問とも少し関連がある。市会議員が完全に自治体の議事機関の一員(その共同体の問題のみ論じるのが仕事)という意識である場合は、地方政治に中央の政治的問題を持ち込むことには反対の傾向があり、政党人としての自覚が高いと地方政治にも中央の政治的問題を持ちこむことに積極的、あるいは反対ではない傾向があろうからである。共産党は一番政党人としての意識が高いのではという印象を受ける。
 最後に「中央の政党数は」について見よう。この質問は、今後の中央レベルの政党(ナショナルパーティー)の数がいくつぐらいが望ましいと考えるかを聞いたものである。結果は表9である。

表9 中央の政党数は

  2つ 3つ それ以上
自民党 11.8% 70.6% 17.6%
共産党 100%
民主系 23.1% 69.2% 7.7%
公明党 30.0% 70.0%
全体 9.3% 44.4% 46.3%

(質問文)現在の衆議院選挙の制度は、小選挙区、比例代表並立制であります。 一部、中選挙区制に戻そうという動きもありますが(31)、あなたは、今後の我が国の政党システムについて考えるとき、中央レベルの政党はいくつぐらいが望ましいとお考えですか。

 全体で「3つ」か「それ以上」と考えている人が多いことが判明した。一頃、小選挙区制が導入された時二大政党制を模索する声もあったが新進党の失敗からか民主系にも「2つ」は少なく公明党に至っては1人もいなかった。自民党はおそらくどのような状況になっても存在する政党であると思われるので二大政党制を模索する方向の人ももう少しいても不思議ではないが「3つ」が圧倒的に多い。共産党は全員が「それ以上」を挙げているのはある程度の政党の存在を前提として活動しているということであろうか。逆に言うと自分のところの存在を前提として全体を考えると「それ以上」となるのであろう。民主系にも「3つ」が多い。民主党は表向き自民党に変わりうる単独政権の樹立を言っていたが現実問題としては二大政党制は厳しいと見ているようである。公明党は「それ以上が」多数だがこれも共産党と同じ理由かも知れない。自分のところの政党が一定の勢力を保って存在することを前提として全体を考えると「それ以上」となるのが常識的ということであろうか。民主党の現状と共産党、公明党の組織の現実を考えるといずれの勢力も自分の勢力が一定存在してライバルの存在を考えるとやはり「3つ」、「それ以上」になるしかないのであろう。「3つ」が多いのは自民党と民主系だがこれは、二大政党制は難しいが3つぐらいの状態なら自分の勢力を保ったまま全体も落ち着くと考えているためかも知れない。中央レベルの政党がいくつぐらい存在するのが望ましいかという設問は自治体議員の日常的な仕事には関係ないように思われるが、このように党派によって特徴のある数字が現れているということからは京都市会議員は政党人としての意識を強く持っているということが読み取れる(32)。
 自治体議員は自治体の問題だけに関心を持ち、当該自治体の「自治」を行うための議事機関の一員という意識だけが強ければ「自治分権」に肯定的であり、中央政治の問題をも考慮している人が「官治集権」の思想を引きずっていると解釈する向きもあるかもしれないが、これは、そもそも議会、議員というものをどう考えるかという原理的な問題である。地方議会の政党化については批判的な意見が根強い。その、理由をいくつか挙げるならば、市民の意見は党派に関係なく、多様なものであるからとか、住民中心の政治が行われなくなる危険性があるからとか、地方の独自性、自主性がなくなるからとか、中央政治の動向が地方政治の最大の争点になる(33)などがある。確かに、これらはもっともな意見であり、地方議員を当該自治体の住民の代表と言う側面からのみ見れば確かにその通りである。いわゆる市民派がどの政党にも属さず、アマチュアリズムを全面に押し出すのはこのような思想があるからだ。しかし、本稿で対象としている規模の自治体議会においては、政党化されている事が一般的である。この事を批判するのはたやすいが、筆者は自治体議会の政党化が否定的側面ばかりとは思わない。これは、何も上に見たように現状の大都市の議員が政党化していて、議員の意識の中にも政党ごとの特徴が見られるので現状を追認しようというような後ろ向きな考え方からではない。
 分権下時代の自治体議会はより住民に近いところに位置するべきであるが、一方において行政への直接参加がますます進むわけでもある。とするならば、議会の議員は相当、プロ意識をもって仕事にあたらない事には、その存在意義が問われることになろう。政党政治におけるプロとアマの問題については多くの課題があるが(34)、地方議会は何もアマチュアリズムと住民に近いということだけを強調し、理念的に自分たちを否定する方向の議論にへつらうよりも、開き直って、つよいプロ意識を持つことの方が必要なのではないだろうか。必ずしも、市民派無所属議員を批判しているのではないが、出発点はアマチュアリズムを全面に出していても、住民に取って代わられるようなことしか出来ないのなら何も、議会人である必要はないと考えるのである。
 マックス・ヴェーバーは『職業としての政治』(岩波文庫 脇圭平訳)の中で、政治家に必要な資質として情熱、責任感、判断力の三つの資質を挙げている。地方議員も政治家であるのなら当然、プロ意識を持ってしかるべきであろう。これまでも見てきたように、巷間言われている、二つの地方議会の課題、すなわち自立性の強化と住民自治の推進の方向を踏まえた上で、ややもすると議員自身が議会否定の論理に陥り易い状況を懸念するものである。
 地方議会活性化の論議も、五十嵐・小川的な地方議会観も、要は議会を重要と位置付けつつも、現状の政治を総否定するか、無視した後、住民・市民を背負うアマチュアか、一方的立場からの専門家集団(福祉や街づくりの専門家)を担い手と想定している。このような議論しか出てこないのは見てきたように、戦後政治の環境や舞台背景を踏まえていないか、全否定するところから始まった議論のために無理もないのであるが、分権後は議会すら崩していくべき対象という議論や議会を町内会の延長の広場と捉えるような議会論に議員自身も与するなら、地方議会が存在する意味はなくなってくるであろう。

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2節 代表制民主主義と連結機能

 市民派がそのイデオロギー的な言説を一般論にして語るのとは別にしても今や議員や議会が信頼されていない事もまた、確かのようだ。前節で見たように、市会議員自身は政党人としての意識を持っているが代表制民主主義の未来は果たしてどうなって行くのであろうか。
 議員の持つ機能に、連結機能(35)があるが、最早、複雑化した現代社会における議員の連結機能は低下の一途をたどっているようにも見える。これは議員のアイデンティティーに関わる事と考えられるが、市会議員自身はこの事をどう考えているのであろうか。本節では、まず、この代表制民主主義と連結機能に関係のある設問についてサーヴェイの結果を見る。項目は「議員の仕事」、「非常勤議員等」、「行政に対して媒介」、「要求を出す団体」、「政策としてまとめるのは」である。どちらかと言うと、最初の2つは「代表」に関係のある論点であり、後の3つは「連結機能」に関係があるテーマである。 
 まず、「議員の仕事」について見る。この質問は、議員の仕事として次のうちどれに重点をおいているのかということを4つのうちから2つ選んでもらった。4つの選択肢は「条例や政策をつくるための審議活動」、「行政を批判したり監督したりすること」、「住民の要望や意見を京都市の行政に反映させること」、「京都市の政策について利害や対立の調整すること」である。(表10―1、10−2参照) 

表10―1 議員の仕事 1位

  審議活動 行政の監督 住民意思の反映
自民党 31.6% 68.4%
共産党 5.9% 5.9% 88.2%
民主系 38.5% 61.5%
公明党 30.0% 70.0%
全体 25.4% 1.7% 72.9%

表10―2 議員の仕事 2位

  審議活動 行政の批判・監督 住民意見の反映 利害・対立の調整
自民党 33.3% 33.3% 16.7% 16.7%
共産党 58.8% 29.4% 11.8%
民主系 23.1% 23.1% 38.5% 15.4%
公明党 60.0% 10.0% 20.0% 10.0%
全体 43.1% 25.9% 20.7% 10.3%

(質問文)議員の仕事として、次ぎのような事項を挙げることが出来ると考えますが、あなたは、次のうちどれに重点をおいておられますか。

 数字にバラツキがあるものの各党派共に「住民意見の反映」が最も多く次に「審議活動」となっている。市会議員が議員の仕事で何を重要と考えているかは党派による意識の差はあまりないと言える。1位、2位共に「利害対立の調整」は少なかった。特に「住民意見の反映」を重視している人が多いということだろう。 
次に非常勤議員等(36)についてどう考えているのか見てみる。この質問は、政府の地方制度調査会が導入を検討している特定分野だけの審議に加わる「非常勤議員」や首長が任命する「名誉職議員」制度についてどう考えるかを聞いたものである。選択肢は「非常勤議員、名誉職議員等の専門知識をもった人が議会に参加するのはよいことである」、「選挙を経ない議員を制度として認めることは、民主主義の基本をおかすことで許されない」、「その他」の3つである。(表11参照)

表11 非常勤議員等

  よい事である 許されない その他
自民党 21.1% 57.9% 21.1%
共産党 94.1% 5.9%
民主系 23.1% 69.2% 7.7%
公明党 60.0% 30.0% 10.0%
全体 22.0% 66.1% 11.9%

(質問文)政府の地方制度調査会では、特定分野だけの審議に加わる「非常勤議員」や 首長が任命する「名誉職議員」制度の導入を検討しているようですが、あなたは地方制度調査会の検討をどうお考えですか。

 各党派の中で「許されない」の比率が高かったのは、共産党、民主系、自民党の順である。共産党の議員は先に見てきた、市民運動や住民運動の政治参加の機会が増えることには全員が非常に肯定的な意見であり、また直接民主主義を求める動きが顕在化していることに関しても肯定的な意見が圧倒的多数であったが、選挙を経ない議員を制度として認めるようなことには強く反対であることが浮かびあがってきた。共産党の人は政治に対しプロ意識を持っていることの証左であろう。自民党はもっと「許されない」が多いかという印象を持っていたがそうでもなかった。
 地方議会といえども「議会」はあくまでも「政治」の側である。自治省は非常勤議員等の制度の導入のために、地方自治法の改正を考えているとの事だが、「行政」である国の自治省からしか、地方自治法改正案が出てこないのはいささか寂しい話しである。地方六団体、あるいは立法府から議員立法のかたちで地方制度の在り方に関して積極的な改革案が出てきても良いのではないだろうか。これは(自治省が常に地方自治法の改正案を作ること)松下のいう「官治主義」による上からの地方自治(というより地方制度整備)であるように見えなくもない。
 また、「福祉」や「街づくり」と言えば専門家に良い知恵を、と考えるのかも知れないが、専門家には現在のように審議会に入ってもらえば良い。このような制度を導入すると地方議会は定年後の地方公務員の非常勤の再就職先になるかも知れない。地方議会人が「非常勤議員等」をどう見ているかというのは、端的に言って、議員の代表制民主主義に対する見識を問う問題であると思う。
 次に「行政に対して媒介」を見よう。京都市で地域住民の様々な要求を行政に対して媒介しているのは誰だと考えるか、多いと思う順に2つまで挙げてもらった。選択肢は「国会議員」、「府議会議員」、「有力京都市会議員」、「一般京都市会議員」、「市の一般職員」「地域の有力者」、「有力団体の役員」、「その他」の全部で8つである。(表12―1、12−2参照)

表12―1 行政に対して媒介 1位

  国会議員 有力市議 一般市議 地域の有力者 有力団体役員 その他
自民党 5.3% 36.8% 52.6% 5.3%
共産党 58.8% 5.9% 5.9% 29.4%
民主系 15.4% 84.6%
公明党 10.0% 40.0% 10.0% 30.0% 10.0%
全体 1.7% 16.9% 59.3% 5.1% 6.8% 10.2%

表12―2 行政に対して媒介 2位

  国会議員 府議会議員 有力市議 一般市議 地域の有力者 有力団体役員 その他
自民党 11.8% 17.6% 17.6% 11.8% 35.3% 5.9%
共産党 5.9% 5.9% 23.5% 17.6% 41.2% 5.9%
民主系 7.7% 15.4% 30.8% 38.5% 7.7%
公明党 33.3% 22.2% 22.2% 11.1% 11.1%
全体 5.4% 1.8% 12.5% 19.6% 19.6% 33.9% 7.1%

(質問文)あなたは、京都市で、地域住民の様々な要求を行政に対して媒介しているのは誰だとお考えですか。多いと思われる順に二つまでお答え下さい。

 1位に「一般」、「有力」の「市会議員」が挙がっていることからは、市会議員たちの自分たちこそが行政に対して地域住民の様々な要求を媒介しているのだという強い自負心が見受けられる。2位には「有力団体役員」や「地域の有力者」が挙がっているが、これは、地域住民の様々な要求を行政に対して媒介しているのは、政治家(議員)だけではないということを示している。

 いずれの党派にも「一般市議」が入っている。おそらく「一般市議」とは自分たち自身のことであり、自分たちこそが地域住民の要求を行政に媒介するのに最も動いているという自負心が現れていると見ることが出来る。公明党と共産党に「有力団体役員」、「その他」が挙がっていたがこれは地域にいるそれぞれの政党の支持団体の役員などを指しているのかも知れない。共産党、公明党はそれぞれ地域に強固な支持基盤を持っているが、その組織の役員は市会議員に似た活動を一部しているのかも知れない。1位に国会議員を挙げた人は自民党でわずか1人いただけで他の党派は1人もいなかった。また府議会議員に関しては各党派とも1人もいなかった。2位になってくると各党派とも「有力団体役員」が目立つ。「有力団体役員」がどのような団体を指すのかは党派によって異なるのであろう。またこの設問は必ずしも市会議員の人達が自分の日常的に付き合いのある「有力団体」を挙げているとは限らない。他の(自分の属するところではない)党派に関係ある団体が行政に対して様々な要求を媒介しているのではという認識から「有力団体」を挙げた人もいるかも知れない。設問が「地域住民の様々な要求を…」となっているのに「有力団体役員」が多いということは、労働組合のような産業別にある組織というよりもどこの地域にもある組織の役員が市会議員に代わるような役割を一部果たし行政に対して媒介をしているということなのではないだろうか。
 次に「政策としてまとめるのは」を見る。この質問は、京都市において、行政に出された要求を政策としてまとめるのは誰だと思うかを聞いたものである。これは連結機能というより次章で見る「議会と行政」に近い問題を含んでいるが、上に見た「媒介」とも関係あるのでここで、続けて見る。
 重要と思われる順に2つ挙げてもらった。選択肢は「国会議員」、「府議会議員」、「有力京都市会議員」、「一般京都市会議員」、「市長」、「副市長、収入役」、「課長以上の市職員」、「一般の職員」、「地域の有力者」、「有力団体の役員」、「その他」の11個である。(表13―1、13―2参照)

表13―1 政策としてまとめる人 1位

  国会議員 有力市議 一般市議 市長 副市長等 課長級以上 市の一般職員 その他
自民党 10.5% 10.5% 26.3% 10.5% 26.3% 5.3% 5.3%
共産党 5.9% 17.6% 17.6% 5.9% 29.4% 11.8% 11.8%
民主系 7.7% 30.8% 7.7% 7.7% 30.8% 7.7%
公明党 40.0% 50.0% 10.0%
全体 1.7% 5.1% 22.0% 6.8% 32.2% 8.5% 5.1%

表13―2 政策としてまとめる人 2位

  有力市議 一般市議 市長 副市長等 課長級以上 一般市職員 地域有力団体 有力団体役員
自民党 5.3% 10.5% 26.3% 36.8% 15.8%
共産党 29.4% 11.8% 35.3% 11.8% 5.9%
民主系 15.4% 7.7% 53.8% 7.7% 7.7%
公明党 20.0% 20.0% 10.0% 40.0% 10.0%
全体 8.5% 15.3% 6.8% 8.5% 40.7% 10.2% 1.7% 3.4%

(質問文)あなたは、京都市において、行政に出された要求を政策としてまとめるのは誰だと思われますか。重要と思われる順に二つまでお答えください。

 1位、2位共に「課長級以上」が最も多くついで「一般市議」だった。実際に出されてきた様々な要求を政策としてまとめるにあたっては、行政職員とりわけ課長級以上の職員の果たしている役割の大きさがわかる。しかし、市会議員たち自身も、かなり政策としてまとめる仕事をしているという自覚を持っているという結果も一方では出ている。一口に政策としてまとめると言っても様々な段階があるので、レベルによって中心的な役割を果たすアクターは変わってくるかも知れない。つまり政策ははじめから終わりまで一つのところで作られるということはないと思われるからである。「国会議員」、「府議会議員」などレベルの異なる議員を挙げた人は少なかった。各党派とも「課長級以上」を挙げた人の比率は高い。「一般市議」を挙げた人は「課長級以上」よりは少ないもののどの党派でも挙げられていた。市会議員が行政に出された要求を政策にまとめるにあたって自分たち自身も重要な役割を果たしていると認識していることは分った。大筋のところを議員が提示し細かいところは課長級以上の職員がまとめて行くということなのであろう。政策を作るに当たっては行政が主導的ではあるが、連結機能は果たしていて、議員が有権者と行政を結んでいると見て良さそうだ。2位も1位に挙げられていたもの同様に「課長級以上」が各党派とも比率が高い。
 ここまで見てくると、議員の意識の中では現状の議会も連結機能を充分に果たしていると言える。行政に対する媒介や、政策としてまとめる機能を果たしていると認識しているからだ。今後、議会を回避する方向での参加論が進んでくると実質上、議会を無視する方向になってくることも考えられるが、このとき議員は従来の機能を果たせなくなりアイデンティティークライシスに陥るかも知れない。今後、議員は常に本来の連結機能の問題を意識して行くべきであろう。

第四章 注
(30)『地方議員の研究―日本的政治風土の主役たち』(村松岐夫 伊藤光利 日本経済新聞社 1986)p.11 (31)当時、公明党を中心に自民党、社民党の一部に衆議院の選挙制度を3人1区の中選挙区制を導入しようという議論がおこっていた事を指す。
(32)市会議員も政党員だから当然と言えば当然だが、ここではっきり党派による違いを確認出来た事は意義がある。「中央の政党再編」と「中央の政党数は」の設問は、それぞれ、政党に属して、政治活動を行っている人に質問を行ったのだから、プロ意識云々以前に予想される回答であり、この事を以って、一概に京都市会議員がプロ意識を持っているとは言いきるのは早計である。しかし「中央政治と地方政治」に関しては、やはり地方議員の間でも中央の問題に対する関心もいくらかあるという事を示している。
(33)例えば『議会活性化への挑戦 議員自らどう学び、実践するか』(新・地方自治経営シリーズ 3 地方自治経営学会編 1986)に、昭和63年11月に地方自治経営学会が地方議員や研究者に行ったアンケートの調査結果があり、地方議会と政党についての調査結果も出ている(pp.175-183)が、これによると、ほとんどの回答者が地方議会の政党化を否定的・批判的にみている。そもそも、アンケートの対象とされている地方議員が無所属の所謂市民派議員が多いためかも知れないし、この結果が多くの地方議員の意識を全て反映しているとは言えないであろうが、研究者の間や広く市民一般に地方議会の政党化が好ましく思われていないことは確かのようである。
(34)山口二郎は『政治改革』(岩波新書 1995)の中で、腐敗を防ぐには、政治においてプロフェショナリズムとアマチュアリズムの均衡を保つことの必要性を説き、政党政治を市民社会の中で営む仕組みを作らなければならない(p.146)と指摘している。確かに、政治のプロと一般社会があまりに隔絶されてしまうと政治に社会のニーズが反映されなくなり、ますます政治不信はつのるであろうし、政治が市民社会に近いところで行われ、誰でも自由に政治参加ができるシステムを作ることは非常に大切な事である。しかし、そうは言っても現に政治の職にある人は、背後に支持者をもち、村松・伊藤の知見にもあるように社会と政治・行政を結び、日本社会でそれなりの役割を果たしていることもまた確かである。どのような議員であれ、選挙で当選をしているという厳然とした事実が存する。この現実を踏まえないで、安易に現に政治の職にある人間を全部「プロ」であると断罪した上で、アマチュアリズムを求める理論を提示するのは先にみた、一定の市民観を持った論者の理論と同じである。政治の側は、無理をしてアマチュアリズムに歩み寄るよりも、責任感を持って、自分たちの仕事を市民の前に公開し広く意見を聞き、有権者側と政治(代表)が双方向のやり取りが出来る場をもっと作って行く努力をすることが必要なのではないだろうか。
(35)村松・伊藤は議員の持つ連結機能を、現在では政党、利益団体、マス・メディアが政府と住民をつなぐ媒体となっているので議員はもはや両者を連結する唯一の絆とはいえないとしながらも、議員の連結機能はいくつかの点で他の媒体とは異なる独自の性格を持っている事を指摘し、議員ならではの連結機能を6つ挙げている。特徴として、議員は地理的対称への関心が強いこと、選挙区と行政を往復し両者をつなぐ役割を果たしている事、選挙の先例を受けている事、何らかの点で支持者と属性を共有している事、フォーマルな「議会」というシステムの構成員である事、議員は議員ということで個人的に脚光を浴びてこと等である。(『地方議員の研究―日本型政治風土の主役たち』pp.126−127)
(36)「日本経済新聞」1998年8月24日付夕刊によると地方制度調査会(首相の諮問機関)は「非常勤議員制度」を導入する方向で年内(98年)にも検討に入り、2年程度で答申をまとめ自治省は地方自治法改正に入るという。非常勤議員は選挙で選ぶが報酬は通常議員の半分ほどで福祉や街づくりなど特定分野の審議だけに参加する専門議員で現行の地方議員を補完する形で選ぶ案があがっているという。「名誉議員」は学識経験者や弁護士、経営者など専門家の意見を幅広く議会に反映させるために首長が直接選任する制度である。自治省は企業に対しても社員の議員活動について協力を求める方針だとも記事には書かれてある。

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第五章 地方における政官関係―地方議会と行政

1節 二元代表制の行方

 本節では行政との関係について考察したい。先にまたサーヴェイデータを見る。ここで見るのは「根回し」、「案件決定のレヴェル」、「市長と行政内容」、「議会と行政」である。
 「根回し」から見る。この質問は、重要な決定事項は、行政執行部が議員に事前の根回しを行っているかを聞いたものである。「充分やっている」から「全然やっていない」までの4段階から選んでもらった。「その他」という選択肢も入れた。(表14参照)

表14 根回し

  充分やっている 大体やっている あまりやっていない 全然やっていない その他
自民党 52.6% 36.8% 5.3%
共産党 11.8% 52.9% 5.9% 29.4%
民主系 15.4% 69.2% 7.7% 7.7%
公明党 30.0% 70.0%
全体 3.4% 40.7% 40.7% 1.7% 11.9%

(質問文)京都市では重要な決定事項は、行政執行部が議員に事前の根回しを行っていますか。

 全体を見ると「充分」と「大体」を合わせた44.1%が「やっている」と見ているのに対し、「あまり」と「全然」を合わせた「やっていない」が42.4%であった。わずかながら「やっている」が高い。もっと行政側からの根回しは日常的に行われているのではないかと思われるが、このデータの数値を見る限りでは、「やっている」は「やっていない」よりは少し高いだけのようである。合わせて58.8%の人が「やっていない」と答えていた共産党には「その他」に印をして「与党にはしているようだ」と書いた人がかなりいた。根回しそのものはあると認識していても自分のところには役人がこないということであろうか。「充分」、「大体」を合わせた「やっている」が自民党52.6、民主系84.6%、公明党30.0%であるのに対し、共産党11.8%というところには、与野党による違いが出ていると見てよいかも知れない。民主系と公明党が同じ与党会派であるのに何故根回しについては「やっている」と回答した人の数字に開きがあるのかはもう一つよくわからない。行政側が共産党に比べて与党会派に根回しをしていることが多いということははっきり読みとれるが、与党会派の中だけを見るとバラツキがある。
 続いて「案件決定のレベル」を見る。この質問は、京都市の諸々の案件がどのレベルで事実上決定されているのかを聞いたものである。事実上決定されていると思うところを2つ選んでもらった。選択肢は「各行政部局の原案段階」、「議会幹部と行政側執行部との事前協議」、「市会の委員会の論議の段階」、「市会本会議での採決の段階」、「その他」の6つである。(表15―1、15―2参照)

表15―1 案件決定のレベル 1位

  行政部局の原案 事前協議 市長の原案 市会委員会の論議 市会本会議の採決 その他
自民党 42.1% 5.3% 31.6% 5.3% 10.5% 5.3%
共産党 41.2% 5.9% 23.5% 5.9% 5.9% 17.6%
民主系 23.1% 15.4% 30.8% 15.4% 7.7% 7.7%
公明党 30.0% 10.0% 30.0% 20.0% 10.0%
全体 35.6% 8.5% 28.8% 10.2% 8.5% 8.5%

表15―2 案件決定のレベル 2位

  行政部局の原案 事前協議 市長の原案 市会委員会の論議 市会本会議の採決 その他
自民党 5.9% 23.5% 41.2% 11.8% 17.6%
共産党 20.0% 26.7% 46.7% 6.7%
民主系 25.0% 16.7% 25.0% 16.7% 8.3%
公明党 22.2 11.1% 33.3% 22.2%
全体 17.0% 17.0% 35.8% 15.1% 11.3% 1.9%

(質問文)京都市の、諸々の案件は次のどのレベルで事実上決定されているとお考えですか。事実上決定されていると思われるところを二つまでお選び下さい。

 この結果からは、やはり、「行政部局」、「市長の原案」と行政側で諸々の案件が決定されると認識している議員の比率が全体に高いということがわかる。「議会幹部と行政側執行部との事前協議」も2番目に重要と思われるところに17.0%で入っていた。この設問は、6つの選択肢の中から、重要と思うものを2つ選んでもらうというものであるが1位、2位共に「行政部局」、「市長の原案」が各党派共に高い。2位には「事前協議」も入っている。共産党でも2位に「事前協議」を挙げた人は26.7%いた。これは重要な案件については、野党会派である共産党も決定の前には行政側との協議の場が持たれるということであろうか。いずれにせよ「行政部局」や「市長の原案」で諸々の案件が事実上決定していると認識している議員の比率が高く、1位に「行政部局」と「市長の原案」を挙げた人を合計すると65.5%にものぼる。この数字だけを見てやはり「行政主導」と決め付けるのは早計であるが、諸々の案件は、大体行政側の案が決定された段階で殆ど固まっているようだ。よく、市会本会議は「セレモニー」だと言われるがそれはかなり事実に近いようで、1位に「市会本会議」を挙げた人は全体で8.5%だった。
 では議員たちは行政側のトップである首長と行政内容についてはどう見ているのだろうか。「市長と行政内容」についての意識は表16である。この質問は、市長が替われば行政内容が変わると思うかどうかを聞いたものである。「非常に変わる」、「かなり変わる」、「少しは変わる」、「誰がなっても変わらない」の4つの選択肢中から1つ選んでもらった。

表16 市長と行政内容

  非常に変わる かなり変わる 少しは変わる 少しと誰がなっても
自民党 5.9% 47.1% 47.1%
共産党 58.8% 41.2%
民主系 7.7% 38.5% 46.2% 7.7%
公明党 22.2% 22.2% 55.6%
全体 25.0% 39.3% 33.9% 1.8%

(質問文)京都市において、市長が替われば行政内容が変わると思われますか。

   当然のことながら、圧倒的に共産党議員は、市長が替われば行政内容は変わると考えていることがわかる。先に見た行政側の根回しは、共産党議員には他の党派に比べてなされていないという結果が出たが、市長が共産党の(推す)市長になり共産党が市長与党になれば、行政幹部の共産党議員に対する態度は変わるであろうことが予想される。一般に市民は市長などの首長について(あるいは政治一般について)安易に「誰がやっても同じ」ということを言うが、市会議員たちは、与党議員でも市長が替われば行政内容が変わると思っている人が多かった。「誰がなっても同じ」という意見は少なかった。これは与野党逆転ではなく、今の与党の枠組みでも、市長が交替すれば、行政内容が変わるという認識の人が多いと考えられる。共産党の人に「変わる」という答えが多かったのは市長与党の交替(つまり共産党系市長の誕生)を念頭においた回答であろうと思われる。
 「案件決定のレヴェル」から、「行政主導」の傾向が出ているが、この問題を聞いたのが次の「議会と行政」である。この質問は、政策決定について、議会と行政のどちらが主体となっていると思うかを聞いたものである。これの選択肢は「議会が主体となり主な政策を決定し、行政当局がこれを執行している」と「行政当局が主体となり、主な政策を決定し、議会がこれを批判、補完している」と「その他」の3つである。(表17参照)

表17 議会と行政

  議会が主体 行政が主体 その他
自民党 5.3% 84.2% 10.5%
共産党 70.6% 29.4%
民主系 76.9% 23.1%
公明党 100.0%
全体 1.7% 81.4% 16.9%

(質問文)京都市の議会と行政の関係についておたずね致します。京都市では政策決定についていずれの傾向が強いと思われますか。

 回答の「その他」16.9%は「問題によって異なる」や「いろいろな側面がある」「一概にどうとは言えない」ということを書いている人がいた。  党派別に見てもこの設問だけは殆ど違いがない。自民党、民主系、公明党、共産党とどの党派でも「行政主体―議会批判・補完」という認識を持っている。議会主導という認識を持っている市会議員が極めて少ないということは、現実から考えると当然なのかも知れない。やはり地方自治においては行政が主体で、その行政に部分的に影響力を行使するのかが、議員の仕事と考えらているのかも知れない。村松・伊藤『地方議員の研究―日本的政治風土の主役たち』でも、議会と行政のどちらを主体と考えるかについての議員意識については触れられている(37)。
 完全にこの調査では、議員たちは「行政主導」と見ていることが明らかになったが、(政策としてまとめるのにある程度関与していることは前節で確認できたが)市会で議員たちが党派を超えて議会側が主体となって、政策立案、政策調整する可能性はないのだろうか。それを聞いたのが次の「政策調整」である。この質問は、京都市において党派を超えて政策立案・調整が行われているか、今後行われることを期待するか等を聞いたものである。選択肢は「既に、議員が党派を超え、政策立案、調整する事は多い」、「今後、議員が党派を超え、政策立案、調整する事を期待する」、「議員は行政の政策を監督、批判するのが仕事だ」、「個別利益を行政へ反映させるのが大切だ」、「地元と市役所のパイプ役が大切である」の5つである。(表18参照)

表18 政策調整

  既に多い 今後期待 行政の批判・監督 パイプ役 今後期待とパイプ役
自民党 27.8% 72.2%
共産党 20.0% 73.3% 6.7%
民主系 8.3% 83.3% 8.3%
公明党 90.0% 0.0%
全体 16.4% 78.2% 1.8% 1.8% 1.8%

(質問文)先頃、国会では、若手議員を中心に「政策新人類」と呼ばれる政治家の活躍がマスコミで報じられました。党派を超えて政策調整を行ったのが新しかったのだと思います。市会でも今後、旧来型の地域代表、業界代表という枠を超えて議員が政策立案(調整)を行うことはあるでしょうか。

 この設問は程度を聞いたものではなく、相対立する選択肢を用意しただけでもない。「政策調整」を巡る問題にいくらかバリエーションのある選択肢を用意した。「今後期待」が党派を問わず多かったのが目立っている。「既にやっている」も全体で16.4%、自民党で27.8%だったがこれは、与党内での政策のすり合わせ、行政側との事前協議などを指しているとも考えられる。
 この設問は一年少し前の「金融国会」で話題になった政策新人類と呼ばれた若手議員の存在を念頭において行ったものであるが、回答を見る限り「今後期待」の数字が高く、野党会派共産党でも73.3%が「今後期待」としていた。回答した議員たちが具体的にどのような政策立案・調整をイメージしていたのかにもよるが否定的な回答が少なかったことを見ると、今後、市会議員の中に「政策志向型議員」が登場し何人かが核になれば出来ない話ではないかも知れない。
 こう見てくると、かなりの可能性は持ちつつ、また代表としての誇りを持ちつつ行動している議会と議員の積極的評価の出来る面が確認出来る一方で、議会が主体として活動するには難しい状況があるのが現実だと思えなくもない。
 最後に、市民参加の問題を「市民対政治・行政」の視点でなく「行政対政治」の視点で考えよう。自治体の主役はそもそも議会でも行政でもなく市民である。したがって市民参加は誰もが賛成する。しかし、「行政・議会対市民」と見たとき、公の意思決定に市民参加が進むのは民主主義、住民自治の観点から望ましいとしても二元代表の「首長対議会」という視点で昨今の市民参加の議論を見たとき、所謂、市民参加は望ましいとばかり言えるかという問題は残る。地方議会の現状からは行政の計画する市民参加は議会を避ける方向で行政が都合よく市民を取り込むことが出来るからだ。本章のサーヴェイ結果から見てきた議員たちの意識からは、やはり自治体は行政主体で運営されている感が強い。
 先行研究紹介・検討の中でみた、村松・伊藤の理論から見ると議会の影響力は決して弱くはないし、市民参加の問題についても議会は黙っているだけで存在している意味があると考えられなくもない。あまりに行政執行部が越権行為を「市民参加」の名の下進めようとすると議会は黙ってはいないであろうからだ。それに何より与党議員(会派)と首長は気脈を通じているのだから、各会派、議員と行政は首長側の行う市民参加には緊張関係があるのでなく合意済みの分野ばかりとも考えられる。もっと言うなら行政が市民参加を進めることを積極的に求める議員もいるだろう。こう、考えると現状では問題はないようでもある。
 しかし、この問題は二元代表の今後を考える時、押さえておくべき原理的問題である。勿論、具体的に先進的な自治体で行われている市民参加の取り組みにもそれ自体として首肯出来るものは多い。むしろ何の問題もないという感もある。しかし、行政のつくる審議会や懇談会は行政の隠れ蓑との批判もある。
 昨今の参加を求める動きの賛同者は行政をサービス提供者とだけ見ているのではないかと思うが、やはり地方自治体もサービスだけをしているのではない。数々の規制をしたり、許認可の権限を持っている事に見られるように住民を規制し指導する権力主体としての一面も持っているのである。
 また、自治体の職員と市民の意見が対立して「パートナーシップ」が破綻した時、果たして行政側は市民側の言う事ばかり聞くだろうか。行政を最終的に動かすのは政治(議会)でありその議会は有権者が直接選ぶのだという大原則を忘れ「汚い」プロの議会を相手にするより、直接スマートに行政とパートナーシップで行くのがよいと思う人たちの意識傾向は理解できなくもないが、分権が推進され今まで機関委任事務だった仕事が自治事務化され、現場の地方自治体の公務員の裁量が増してくると、参加も大切であるがそれをコントロールする側の力も大事である。そしてそれは政治であると考えるが、抽象的な「市民」を持ち出す人の言説の裏には政治をも否定している感じの論理が潜んでいるのでこの問題は難しいのである。
 「参加」は、いわば行政が市民を参加させてもよい領域だけ、あるいは参加させたほうが面倒が省ける領域、参加させることによって市民を取り込むことを考えてくる領域だけに開放してくる可能性ある。勿論、参加について議論する有識者自身は行政の手先だなどとは思っていないだろうし、市民を代表し行政とのパートナーシップを求めてきているのだと考えられるが参加に適する政策領域とそうでない領域を一つ一つ洗い直して行く必要と共に参加と言っても全員で一致できる問題以外の問題も存在するということを考えておくべきであろう。議員たち自身が議会を活動的と見ているから、議会に任せ「市民参加」は要らないという単純な論理を展開するわけではない。この問題は、意識されにくいが重要である。なぜ意識されにくいかは議会の影が薄く、議会が主催する市民集会などはないからである。もし、松下の言うよう、今後、各地方自治体の議会が基本条例を制定し、議会の在り方も自らつくり直せる力量がそなわれば、市民参加の問題も新たな展開を向かえると考えられる。
 代表の論理こそが、議会の存在理由の拠り所だと考えるが、昨今の参加論は議会を代表機関と見なさないか、無視する方向で進んでいるように見える。分権推進下での議会は実質的な立法能力が問われると共に、一方において直接参加による行政執行部が正当性を全面に出してくることが考えられるので、議会自体が内部の対立は大切にしつつ、一致して市民から意見を聞くという態度も持つべきであろう。行政が市民参加を進め執行機関として強くなってくるならば、議会も独自に民間から人を呼び意見を議決に反映させていくというような発想の転換も必要であろう。議会が自主性を強調すると、すぐに市民無視、権威主義という批判が参加論者からなされるが、それは参加論者が行政の方しか見ていないからである。参加論者が議会に参加し、議決に影響を与えればよいのである。これは住民投票のところで見た、間接民主制を使って、直接民主制的な理念を達成しようとする動きとも関連がある。現状からは難しいが、議会自らが二元代表制の一方の雄であるとの認識を持った上で議会が主体となった参加システムを考えて行く事は今後の重要な課題であろう。

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2節 議会事務局改革案

 さて、これまで、地方議会を巡って、その制度面の考察、議会に関する規範的な議論、議会の主たる構成員である議員の意識などについていくつかの角度から論じてきたが、最後に筆者なりに、地方議会及び地方の政治・行政システムについて具体的な改革案を二つ示して本稿を締めくくりたい。
 本節では地方議会事務局の改革案について提案する。実は議会事務局改革案はすでに多くの勧告等で触れられているが、ここでの提案はそれらとは全く異なる。議会事務局職員の人事権者を首長から議長とし、議会事務局を完全に行政機構から切り離し基本的に一般の事務局職員ははじめから議会事務局に就職するという制度にすることである。現行でも職員は議長から任命されているのだが実際には人事交流なども頻繁に行われ行政職員が議会という一つの部署に行っているという性格が強い(38)。そして人数は現在よりも大幅に増やし立法調査機関としての体裁を整えるというものである。この案についての反論としては、「もう一つの官僚制」をつくることになるのではないかというものがあろう。村松・伊藤『地方議員の研究―日本的政治風土の主役たち』でもこの問題については言及されており、村松・伊藤はスタッフ機能強化については、少し後まわしにして考えればよいのではないかとしている(39)。しかし、二元代表の片方の力を現在よりもう少し強めるという観点から思い切って、「もう一つの官僚制」をつくっても良いと考える。分権が推進され各自治体が独自に仕事を進めていくとなると議会全体がしっかりした立法調査機関を持った方が仕事を進め易いからである。つまりある程度の規模の自治体(都道府県、政令指定都市及び今現在、議員が専業で活動出来ている自治体)においては議会は批判に徹した方が良いという考えをとらない。トップが首長ではなく議長であるのも重要な特徴である。つまり、現行の制度のまま事務局スタッフを増員するというような中途半端な改革案とは理念的に異なる。そして、議会にはいわば「県政(市政)調査権」のような大幅な権限を与え、議会は議会として首長の下にいる行政職員が政策立案するのとは別の角度から政策課題を広く社会から汲み上げられるようなシステムをつくるのである。 
 議会事務局員の人事権者を首長から切り離して一般の自治体職員と別採用にし人事権者を議長にするだけではなく、いくつかの「政治任用」のポストも認めるということも提案したい。人数やポストの数、議会事務局全体にける位置付けなどについてはこまかく検討しなくてはいけないが例えば各会派から数人(議席数に応じてでもよいし、各会派ごとに一律に割り当ててもよい。勿論、無所属の議員にも不利にならないような制度的配慮は十分に行う必要があり、政党政治を前提とした硬直した制度にはならないようには注意する必要がある)議員あるいは政党の推薦によって事務局員を出せる仕組みをつくるのである。政治任用論には多くの反論があることを承知の上で敢えてこの案を提案する。それは本稿の底流に流れる一貫したテーマである、今後は地方においても政治の影響力を強め、分権下の自治体においては政治の層を厚くし政治の質的転換をするべきである(議員の自己認識も変化していくべきである)という主張からきている。これは、住民自治の原則と理念的に矛盾しない事はこれまで見てきた通りである。むしろ、政治の側を制度面で強くする方が、それこそ市民も安心して政治・行政に参加しやすくなるし、結果として議員の質も変わり、松下のいう「市民の議会」に近いものが出来る可能性もあると考える。
 議会事務局員の政治任用論にはさしあたり次の二つほどの批判が予想できる。一つ目は政党や会派の代表を事務局に入れると、事務局内の政党・会派代表の事務局員の打ち合わせや会議が実質上の議会運営を決めてしまうことになるのではないかというものである。もう一つは、政治任用をあまり増やすと事務局員の採用が顧客主義に陥って、有力議員にコネクションをもつ人物ばかりが事務局員になり、議員は自分の支持団体や身内の人間を次々に事務局にいれ、事務局職員の政策立案のレヴェルが低下するのではないかというものである。他にもいくつも政治任用については多くの反対論が考えられるが差し当たり予想される反対論について答えておく。一つ目の問題に関しては反論にならないが仮にそういう状況が生まれてきてもよいのではないかと考える。最終的にはどのような案件も本会議で決定されるわけであるから、その途中の政治過程で政党・会派代表がいくらかの決定に参加しても別に問題はないのではないだろうか。
 これは、そもそも、議会事務局員として全く実務的な調査、研究、政策立案に携わる職員を整備した上での話しであるから、全体から見ると数の少ない政党・会派代表の事務局員が議会運営の動向を左右する役割を演じてもそれはそれで問題はないと考える。議会事務局全体の中立性が保たれなくなるのではないか、という反論も出てこようが、そもそも、政治任用の人は中立の人ではなく政党・会派を代表してあるいは議員代理で仕事をするのであるから、その他の一般職員とは役割を異にするわけである。要は議員たちの腹心あるいは政党人が自治体の運営にもいくばくか参与することになるのであるがそのことに特段の問題はないであろう。
 二つ目の問題についても基本的に同じ論理で答えたい。我が国ではとかく政治任用というものは嫌われる傾向があるように思う。現在、実際に政治任用のポストというのはあまりないから厳密には何とも言えないのであるが、行政公務員という職業が中央の高級官僚から小規模自治体の公務員に至るまで社会的に認知を受けた職業であるのに対し、政治に関わる職は国会議員・地方議員及び秘書、政党職員などを含め、今一つ社会的に認知を受けている職業とは言えない(40)。が、政治に携わっている人間を特別視し、一般社会と断絶した職業分野であると見なす社会が、健全な民主主義社会であろうか。勿論「政治」の側が反省すべきは多くあろうが、「職業としての政治」を世間が否定するのは危険なことである。政治任用により、地方において議会事務局にいくらかの「政治のプロ」的人物が入ってきても良いのではないかと考える。議会事務局の一般職員は勿論、日常の実務を行う必要があるので、ある程度は今の府県や市役所の職員のように試験をした上での採用をすべきであるし、採用後は法律等の訓練も必要であるが、何より議会は政治の場であり、第一章2節で確認したように社会のあらゆる問題をぶつかり合わせて統合を図るところである機関であることを重要視するならば、試験採用者より上位に(あるいは全く別に)政治任用の職員を置いて優遇するべきであろう。政党・会派推薦者が一般職員と同じ仕事をやるのでは意味がない。それこそ、ただの顧客主義に陥るしそもそも法律解釈などの専門家ではない人は仕事が出来ないかも知れない。政策研究、立案の専門家と議員の代理のような人とは役割分担、分業して議会を盛り上げて行くようにするのがこの提案の大事なところである。
 これぐらい思い切ったことをしなくては地方議会の現実は変わらないであろうし、同じ議論が繰り返されるだけである。また、このままでは、既に本稿で確認してきたが、議員すら行政職員に取りこまれ、自治体のメンバーの中でもとりわけ質の悪い一員が議員ということになるであろう。今後、分権推進下の自治体では、権限を握った行政職員が何でも自由裁量で仕事を進めて行く可能性も出てくる。そこで「参加」や「協働」が言われ出しているのであるが、先にも確認してきたよう行政の市民取りこみ型「参加」だけでは限界がある。今までの議会活性化論が、いくら繰り返し提案されても効果がなかったのは、そもそも議会を「政治の場」と捉え政治の力を行政の力と比べて強くするという考えが根底になかったからのように思う。更に言及するなら、五十嵐・小川のような、悲憤慷慨型で議会をもっとしっかりさせなくてはいけないとする論者自身が「政治の復権」でなく基本的に現在の政治を嫌う人たちで、「議会よしっかりせよ」という時に、そこに、現行の議会及び議会人を総否定し新しい担い手として「市民」を持ち出すという思考パターンしか出来なかったからだと思われる。基本的に「プロの政治」を嫌う論者が議会に期待する言説を述べる時、そこには、現行の議会や議員を総否定した上で新たな担い手として「市民」を持ち出すしか方法がないのは当然だが、それは結局のところ、「今の政治はダメだ」と言っているがダメな連中そのものとは対決していないのと同じことなのである。
 この議会復権論は、とりあえずはどのような議員が望ましいかという議論(不適格な議員は有権者が決めるのであって誰かがペーパーテストをして決めるのではない)はおいて、システムとして議会を強くする方法を提案するものである。その文脈の中に政治任用や議会事務局の執行機関からの完全独立論もある。市民派の議員、政党人ではない議員の存在を否定しているわけではないし、政党に所属する地方議員のみを地方政治の担い手と考えているわけではない。改革案による政治任用の職員の中に市民派の無所属議員が友人や運動家の仲間を連れてきても良いとも思うのである。そうすれば議会は活性化するであろう。例えば、環境問題を訴える無所属議員が環境団体のスタッフを引き連れ役所にやってくるというのも良いではないか。業界代表は業界団体の役員を、労組出身者は労組の役員を期限付き連れてくればよいのである。政治任用の事務局員の任期は基本的に4年間とすればよい。あるいは議会が始まる時にその都度、議長に登録するという制度にしてもよい。これは実際に地方議会が活性化するための提案としてはいくらか意義のあるものだろう。少なくとも行政機構との実力差を縮めるための提案としては検討に値するのではないか。

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3節 小規模自治体の政治・行政システム改革案

 ここまでは主にある程度の規模以上の自治体議会に対する分析を行ってきたが最後に小規模自治体の政治・行政システムについての考察をしておく。前節に述べてきたことは、都道府県、政令指定都市、中核市ぐらいまでの自治体議会についての改革案である。本稿そのものが「はじめに」でも述べたようにある程度の規模以上の自治体議会についての議論を展開してきた。したがって、本節で述べることは本稿のこれまでの議論とは少しはなれた議論であるが記しておく。議員が専業化できないような規模の自治体では思い切って議会を廃止するのである。それでは執行部だけになるのではないかという心配が出てくるが、改革案では数人の執行部兼議会を公選で選ぶ。所謂、ホームルールであり、例えば、イギリスは「カウンシル」が議決機関であると同時に執行機関である。アメリカは地方政府という場合、州より下の地方自治体を言い、自治体制度は州に任されているおり、州により大きな相違が見られる。市長―議会型、委員会型、議会―支配人型、市長―行政管理型などの様々な形態がある。フランスやドイツにも様々な制度がある。国によって、地方の政治・行政システムはかなり違い、同じ国でも時代により変化してきている(41)。
 公選される人は自治体規模によって5人から20人くらいが適当な数であろう。この選ばれた執行部兼議会は今の役割で言うと首長、助役、収入役、議長、議員などの役割を分担してこなす。これなら現行の首長を選ぶ選挙と議員を選ぶ選挙を一緒にしたような選挙が行われる。選挙は4年に一度が適当であろう。当選したもの同志に意見の違いがあってもそれはかまわない。この機関は執行機関であるが合議体なので内部に立場の違うものが集まって意見を闘わせることで自治体の意思を統一して行けばよいのである。これは執行部を選ぶというよりは、ごく定数の少ない議員による議会を選び、その合議体が執行権を持つというイメージである。もちろん、報酬面ではどれほど小さな自治体でも専業としてやっていける程度の給料は保証しなくてはいけない。理念的には定数削減をして報酬を上げるというものと近い。特徴的なのは議会を廃止という事と共に首長も廃止するのという事である。この事により今問題になっている、自治体首長の多選による権力の固定化も防げるというメリットも出てくる。選挙ごとに少しづつメンバーは入れ替わるから中に多選をする人がいても同じ人がずっと権限を握ることは避けられる。この制度を導入すればより規模の小さい自治体ほど政党化はしなくなるであろう。ある程度の規模の自治体は執行部と議会が完全に独立しそれぞれの役割を果たすのが望ましいが人口が少なく、産業も少ない自治体では殊更、議会と首長を別に選ぶ意味はないように感じられるからである。現状を見ても小規模自治体の議員は兼業議員が多く、議員報酬だけで生活をしていくのが困難なところが多い。
 これまでの固定化された地方議会活性化論から脱却するという意味で敢えて提案をする。これを導入するには、我が国においては地方自治法の改正ではなく、憲法改正をも行う必要があるが、今後、この国のあり方を根本的に問い直す作業が国会で行われ、広く地方制度全体についての議論も行われるならば、遡上に上げられてもよい提案であろう。

第五章 注
(37)『地方議員の研究―日本的政治風土の主役たち』(村松岐夫 伊藤光利 日本経済新聞社 1986)pp.167―176 (38)地方議会の事務局を巡る問題点については、『地方政治と地方議会』(西尾勝・岩橋忠夫編 ぎょうせい 1993)の「11 政策立案、決定機能と議会事務局、図書室の充実」の「二 議会事務局の調査権能」(野村稔)等に詳しく述べられている。
(39)『地方議員の研究―日本的政治風土の主役たち』(村松岐夫・伊藤光利 日本経済新聞社 1986)p.183 (40)「読売新聞」1999年12月28日付け 朝刊によると、読売新聞の世論調査で政党・政治家を信頼しない人は実に70%を越えている。この数字を蒲島郁夫東大教授は危険水域であると指摘している。この調査は政党・政治家についての調査だが、当然政治家の秘書等の政界関係者も世間の認知を受けていないであろう事は容易に察しがつく。社会全体が政治を嫌っていると言っても過言ではない状況が生まれていると言えよう。
(41)外国の地方議会制度(政治・行政システム)については『地方議会』自治行政講座 2(伊藤祐一郎 第一法規 1986)の「第3節 議会制度の沿革及び主要諸国の議会制度」(pp.21−35)などに詳しい。

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おわりに

 いくつかの視点から、地方議会と議員について、分権推進下を想定し、議員の意識を睨みつつ、問題を検討してきた。これまで、地方議会はあまり関心を払われてこなかったが昨今、少しずつ注目を集めている。しかし、議会に対して、期待する声は少ない。背景の一つに所謂、政治不信がある事も明らかであろう。また議会に注目する意見は見てきたように「市民」という一定の限定された人々をこれからの担い手として考えるタイプの議論しか展開されていない。
 今、必要なことは、これまで地方議員たちが果たしてきた役割をある程度正当に評価し、政治の実際に対しての理解を深めた上で、次の時代にどのような役割を期待するかを考えることであろう。見てきたように、分権推進下での課題は、議会の自立性確保と住民参加の推進の二つである。しかし、住民参加の理論は議会回避と議会無視の方向へ進む可能性が大いにある。今後、機関としての議会に期待されるのは、住民参加の論理自体を議会がどう取りこんで、行政とは別の側面から自治体をリードして行けるかである。機関としての地方議会全体が今後、どのような展望を見出すかは正直に言って難しい。データで見てきたように議員自身はかなりの自負心と誇りを持っている。だからと言って、現状を全肯定出来ないのも確かである。
 また、議会は「政治の場」であるという基本を忘れてはならない。議会を単なる町内会の延長線上に位置付けるタイプの議会論では、結局は情報とノウハウを持つ行政職員には対抗できない。議員自身が無意識のうちに、原理的に議会を否定する方向の論理に安易に乗ってしまう事は自殺行為以外何物でもない事を強く指摘しておきたい。このような議論は現在、少数であることを充分に踏まえた上であるが、今後の議員に求められるものは、党派を問わず、明確なプロ意識を持つことであると思う。「政治のプロ」としての誇りを持ち、背後に住民の支持を持つ議会人が今後、政策立案の面でも自治体をリードする「政策志向型議員」として出現してくる事は、住民自治の本旨に反しないどころか、民主主義の質を向上させることにもつながる事であると確信するからである。
 本稿では触れられなかったが、市民が現状の地方議会を率直にどう見ているのかという問題はやはり重要である。あらゆる公共事業を全否定する括弧つきの「市民」や、住民運動に関わっている一定の政治勢力、「市民」を語って現行とこれまでの政治・行政システムを批判・否定する「市民」ではなく、日々ほとんど政治・行政に発言をせず関心をも持っていない市民が地方議会をどう見ているのかという問題である。本稿では地方議会否定論・批判論に対しては主に現実の議員の意識のデータを持ってきて、かなり議員の自負心が強い事を証明し、また、地方議員がプロ意識を持つことを評価する立場から一定の地方議会擁護論を展開してきたのであるが、この事によって議会が批判に晒されなくなるというものでは勿論ない。問題は無関心で発言しない市民と機関としての議会の間隙を議会のメンバーである議員がどう埋めるかという事であろう。本稿では議会がより仕事を行い易いように、制度改革を提案したが最も重要なことは議員自身である事は間違いない。この問題はそのまま現実政治の難しさにつながって行く問題である。

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〔主要参考・引用文献(論文)一覧〕
『地方自治の法と仕組み』全訂版 原田尚彦 学陽書房 1995
『地方自治法』兼子 仁 岩波新書 1984
『新 地方自治法』兼子 仁 岩波新書 1999
『改正地方自治法のポイント』地方自治制度研究会編 ぎょうせい 1999
『地方自治法』兼子 仁 磯野弥生 自治体法学全集 7 学陽書房 1989
『分権改革と地方議会』大森弥 ぎょうせい 1998
『地方自治』村松岐夫 東京大学出版会 1998
『日本の行政―活動型官僚制の変貌』村松岐夫 中公新書 1994
『概説 日本の地方政治』阿部斉 新藤宗幸 東京大学出版会 1997
『明日の首長・議員・公務員』坂田期雄編 ぎょうせい 
『地方政治と議会』西尾勝 岩橋忠夫編 ぎょうせい 1993
『自治行政講座』2 地方議会 伊藤祐一郎 第一法規 1987
『〔実務地方自治講座 5巻〕議会』八木欣之介 小笠原春夫編 1990
『地方議会―会議の理論と実践』全改版 西村弘一 ぎょうせい 1986
『議会事務局』シリーズ 市町村の実務と課題 23 自治大学校地方行政研究会監修  
                石山一男 田口正和 ぎょうせい 1993
『〔実務地方自治講座 5巻〕議会』八木欣之介 小笠原春夫編 1990
『地方議会―会議の理論と実践』全改版 西村弘一 ぎょうせい 1986
『地方議員の研究―日本的政治風土の主役たち』村松岐夫 伊藤光利 日本経済新聞社 
1986
『京都市政治の動態』三宅一郎 村松岐夫編 有斐閣 1981
『現代地方議会論』井下田猛 内田老鶴圃 1986
『議会活性化への挑戦 議員自らどう学び、実践するか』新・地方自治経営シリーズ3
                         地方自治経営学会編 1986
『徹底討論・徹底分析 地方議会の活性化』新・地方自治経営シリーズ 10
                         地方自治経営学会編 1989
『政治学入門』阿部斉 岩波書店 1996
『政策科学へのアプローチ』山口定 柴田弘文編 ミネルヴァ 1999
『現代政治学小辞典 新版』阿部斉 内田満 高柳先男 有斐閣 1999
『政治・行政の考え方』松下圭一 岩波新書 1998
『議会―官僚支配を超えて』五十嵐敬喜 小川明雄 岩波新書 1995
『市民版 行政改革―日本型システムを変える―』五十嵐敬喜 小川明雄 岩波新書 
                                  1999
『政治参加』蒲島郁夫 東京大学出版会 1998
『自治体は変わるか』松下圭一 岩波新書 1999
『政治改革』山口二郎 岩波新書 1993
『日本政治の課題―新・政治改革論』山口二郎 岩波新書 1997
『日本の政治』村松岐夫 伊藤光利 辻中豊 有斐閣 1992
『職業としての政治』マックス ヴェーバー(脇圭平訳)岩波文庫 1980
『なぜ国家は衰亡するのか』中西輝政 PHP新書 1998
『「市民」とは誰か』佐伯啓思 PHP新書 1997
「地方議会の活性化の論議について」駒林良則 名城大学法学論叢 48巻2号
「自治体議会における情報公開」宮崎伸光 都市問題 1999年9月号

 

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