私憤・公憤・義憤
吉田 健一
政経塾の卒塾がいよいよ近づいて来た。我々は塾に居る時は、毎朝、朝会で塾
歌を斉唱するが、塾歌の中に「…怒りを祈りの光に変える」という一節がある。
私は入塾以来、この「…怒りを」の部分が気になっていた。政経塾に来る人は
皆、何らかの「怒り」をもってやって来る。しかし、怒りが怒りのままではダ
メで、「怒りを祈りの光」に変えるところが、この政経塾だというのだ。
では、この「怒り」とは何だろうか。どういう「怒り」なのか。我々は普通「
怒り」の感情というものは否定的に捉える。「怒り」などない方が良い。しか
し、私は、政治を志したり、何か社会的な事に関心をもって活動をしようとい
う人間には「怒り」が必要だし、また、「怒り」がなければならないと思う。
その怒りの内容・質が問題なのだ。自分がうまく行かないのは世の中が悪いの
だ、などという個人的な事で「怒る」のは、これはダメである。
自分にのみ関係のある事で憤るのは私憤である。しかし、そこから、一歩深く
物事を考え、更に、人々の幸福に思いを馳せるならば、私憤はなくなり、公憤
になって行く。更に、このような事が許されて良いのかという考えから、社会
・世界・人類の現実に黙ってはいられない「怒り」を感じるとき、その憤りは、
義憤になって行く。公憤・義憤は大事だ。貧困や差別、戦争という現実に憤り
を感じない人ばかりになれば、世の中は一向に良くならないだろう。
毎日の生活で、憤りを感じる人は多いだろう。問題はその憤りが、どのレベル
の憤りであるかだ。私憤は出来るだけなくし、公憤・義憤をもつ人が多くなる
ほど、世の中は良くなって行くと思う。これは、人々の欲望がどのレベルにあ
るのかという事と無縁ではない。低いレベルの欲望しかもっていない人は憤り
も私憤に止まる。今後とも、私は義憤を抱く人間として、健全な憤りをもって
生きて行きたい。健全な憤りをもつのは塾生の使命でもある。
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